巣鴨中学校・高等学校
巣鴨中学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 14:57 UTC 版)
小学校卒業後、東京府立第四中学校に入学したが、2学期から巣鴨中学校へ転入。剣道部に入部する。同校の剣道教師高野慶寿(高野茂義の長男)は、寅雄の才能に驚いた。その後レギュラーに選ばれ、全日本中等学校剣道大会で団体優勝。1931年(昭和6年)、第6回明治神宮体育大会剣道競技(現在の国民体育大会に相当)で個人優勝を果たした。 一方、従兄の野間恒は、小学校卒業後は父清治の意向で進学せず、帝王学ともいえる独自の教育を受けていた。そのため中学校の大会に出場した経験がなかった。清治は恒に試合経験を積ませるため、野間道場師範持田盛二の引率で千葉県銚子市にある格心館という道場へ試合に出向かせたことがあったが、同行した寅雄が先鋒として出場するや、格心館の門人36名をことごとく勝ち抜き、遂に恒の出番は無かった。 巣鴨中学校卒業後、有名各大学からの勧誘を断り、野間清治の意向で1932年(昭和7年)に当時講談社傘下だった報知新聞社に入社する。報知では社会部記者として桃色争議などの事件を担当し、その関係で同争議の中心人物だった水の江瀧子との仲を噂されたこともあったという。
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