やまもとげんぽう 【山本玄峰】
山本玄峰
山本玄峰
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山本 玄峰(やまもと げんぽう、慶応2年1月28日(1866年3月14日) - 昭和36年(1961年)6月3日)は、日本の禅僧。道号は玄峰、法諱は宜詮、宜雄。室号は般若窟。俗姓は岡本、後に山本。和歌山県本宮町生まれ。龍澤僧堂師家(僧堂を開単)、瑞泉僧堂師家(僧堂を開単)、21代妙心寺派管長、圓福僧堂家を歴任する(年代順)。
- ^ a b c 『回想 山本玄峰』玉置辨吉編集著 春秋社発行 1986年10月 ()にページ数
- ^ 玉置辨吉著中、朝日新聞記事・紀野一義記を引用。pp.16-17
- ^ 『昭和平成 禅僧伝』臨済会編 春秋社発行 2010年8月 pp.185-186
- ^ 捨子は虚説とも言われ色んな説ががあり、今となっては確証がない。『玄峰老師』高木蒼梧著 p.3
- ^ a b c d e f g h i 『玄峰老師』高木蒼梧著 大蔵出版発行 1963年8月 ()にページ数
- ^ 岡本善蔵が玄峰青年に早く妻帯させたのは、素行に心を痛めた養父のはらいと思われる。『玄峰老師』高木蒼梧著 p.13
- ^ 言い伝えによると、太玄和尚が「お前さんは坊さんになる人だ。」と言われた。これに対し「私は盲目で文字も知らないが坊さんになれるでしょうか。」と尋ねると、太玄和尚は「親からもらった眼は老少不定で、いつの日にかは見えなくなる。しかし心の眼が一度あけばつぶれることはない。・・・死んだつもりになってやれば、本当の坊さんになれるよ」とさとされ仏道に入いることとなったと言われる。『玄峰老師』高木蒼梧著 p.16
- ^ a b 『季刊 禅画報 山本玄峰』第6千眞工藝発行 1988年12月 山本玄峰年譜
- ^ 玄峰老師が龍沢寺にやって来た当時のことを、次の様に語っている。「わしが来た時分には、着て寝る蒲団も何もありはせん。仏様に備えるお椀一つも茶碗一つもなかった。金物というたら鍋一つもありはせん。」『玄峰老師』高木蒼梧著 p.55
- ^ 終戦直前鈴木貫太郎が玄峰老師を訪問した時、山本玄峰から「相撲で言えば日本は大関。大関は大関らしく負けなければいかん。」また「忍び難きを忍べ。」とされ、それが終戦の詔勅のお言葉になったと言われる。『玄峰老師』高木蒼梧著 p.185
- ^ 鈴木総理の使者が玄峰に終戦の決意を告げに来た時、使者に託した書状に、「貴下の本当のご奉公は、これからであるから、まず健康に留意され、どうか忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて、国家の再建に尽くして頂きたい」と書かれた。『回想 山本玄峰』玉置辨吉編集著 春秋社発行 玉置辨吉著 pp.16-17
- ^ 克己, 高橋 (2021年3月1日). “「我執」を捨てれば日本と日本人が救われるかも知れぬ話”. アゴラ 言論プラットフォーム. 2024年1月30日閲覧。
- ^ a b c [http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-605.htm 『こころの時代 難きを忍び忍び―山本玄峰の禅―』 語る人 全生庵住職 平井玄恭 聞き手 福本義典 NHK教育テレビ放送 1989年10月1日
- ^ 遺書にはこういう一節があった。龍沢寺、松蔭寺に住職たるものは、東嶺、遂翁の住持たるべし。世の常の和尚ぶりとなること勿れ。自分の葬儀は絶対に行わざること。『回想 山本玄峰』玉置辨吉編集著 春秋社発行 田中清玄著 p.111
- ^ 玄峰老師の徳を慕った山田無文は伯日荘に度々泊まり、その足跡を偲んだという 『季刊 禅画報 山本玄峰』第6千眞工藝発行 1988年12月 p9
- ^ 『ここに書いてあることについて、もう少し細かく学問的に、誰それはこういうたと、いろいろ注釈を集めてお話するといいのじゃけれども、わしの話は直接に根源に---あまり方便をかることはできんからやらない。そういうことについて、いろいろお話をすると、そうかしらん、なるほどと、ものの筋が早く知れるかもしれないが、肝心の自分の自性を獲得するには却って遠くなる。』『無門関提唱』山本玄峰著 大法輪閣発行 1960年
- ^ 「禅画報 山本玄峰 6号」千眞工藝発行 1988年 24p
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