山口移鎮とは? わかりやすく解説

山口移鎮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/08 05:24 UTC 版)

山口移鎮(やまぐちいちん)は、幕末長州藩(萩藩)が、藩庁となる居城萩城)から山口山口城)へ移転したできごと。


  1. ^ 明治9年(1876年)の萩の乱では、不平士族が明倫館に立て籠るが、艦砲射撃が有効活用されて早期鎮圧に至っている。
  2. ^ a b c d e 山口移鎮 - 大内文化まちづくり(山口市文化政策課)
  3. ^ 目で見る 毛利家あれこれ 〜毛利博物館収蔵資料と歴史ばなし〜第237回 - 毛利博物館館長代理 柴原直樹(ほっぷ 2015年4月10日号 - 地域情報新聞社)
  4. ^ 山口御茶屋”. 山口市文化政策課. 2015年2月19日閲覧。
  5. ^ 目で見る 毛利家あれこれ 〜毛利博物館収蔵資料と歴史ばなし〜第258回 - 毛利博物館館長代理 柴原直樹(ほっぷ 2015年9月4日号 - 地域情報新聞社)
  6. ^ 幕末に築かれた「山口御屋形(山口城)」”. 山口県総合企画部広報広聴課 (2011年1月28日). 2015年2月19日閲覧。
  7. ^ 是日又山口に造築すべき建築工事の次序は五口の番所を第1にし、然る後霊社政事堂公館公族諸邸学校役員官舎の順と定め、其の用材は萩城内其他及び桜田邸にて解除せるものを運送せしめんとせり。かく工事に古材を用ひんとせるは国内山林の濫伐流廃を防がんが為なり」「両公伝史料」(山口県文書館蔵)
  8. ^ 維新史回廊だより第20号”. 維新史回廊構想推進協議会 (2013年9月). 2015年2月19日閲覧。
  9. ^ 山口大学の来た道1”. 国立大学法人山口大学. p. 7 (2010年). 2015年8月31日閲覧。
  10. ^ 攘夷之御国論前條之通御決定に付ては深き思召之旨被為在来十日より御日帰之御唱にて為御湯治山口へ被成御越彼地形勢御熟覧被遊候事
  11. ^ 山口封鎖”. 山口市文化政策課. 2015年2月19日閲覧。
  12. ^ 私居城長門国指月の儀は、同国阿武郡の片隅、土地卑下、人気狭小の所柄に御座候、当時外患切迫の儀に候えば、同国豊浦郡赤間関をはじめ、周防国佐波郡三田尻、熊毛郡室積など要津多く、且つ平遠の陸路も少からず、かたがた西北海はかつかつも耳目及ぶべく候えども、南海の儀はとかく気脈を通じかね候に付き、万一の節指揮号令差障りこれあるべく、就いては防長全国之辺備は十分相整い申さず、せっかく攘夷の期限決定の砌、肝要藩鎮の任堪えがたきやと、甚だ以て恐縮罷居り候、これにより末家並びに家老ども評議に及び候ところ、周防山口は領海にて中央の地四方への号令自然と響き渉り候形勢につき、右地に罷居り、三面海辺の指揮仕り候はば、進退動静その機にあたり候よう相成るべきに決定仕り候、私十三代の祖輝元、慶長年城地伺い候、指月へ金銀そのほか家来中、妻子をも差置き、山口には側廻り相勤め候ものばかり召連れ常々罷居り、他国使者の引請け等仕り候ようとの御内差図も御座候ところ、古今時勢の違い、敵情の変りもこれある儀に候えば、今に至りては、山口も以て金銀そのほかの置所となし、指月は勿論、桑山等を以て他国使者の引請場とも仕り度く存じ奉り候、しかしながら山口の儀は、全く以て城構え等仕り候儀にては御座なく、真の土居取立て、手近に召遣い候家来ばかり差置き候て、指月の儀は番兵こめおき、城下警衛厳重に申付け、藩鎮の任、これもその節を遂げ奉り度く決定申上げ候儀に御座候間、当御時勢の儀、格別の筋を以て、宜しきよう御差図なされ下さるべく候
  13. ^ 山口移鎮”. 山口市文化政策課. 2015年2月19日閲覧。
  14. ^ 山口県の文化財 文化財要録”. 山口県教育庁社会教育・文化財課. 2014年11月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月19日閲覧。
  15. ^ 山口県の「中核都市」構想をめぐる諸問題”. 下関市立大学学長吉津直樹 (1984年5月). 2015年2月19日閲覧。


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山口移鎮

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萩城下町」の記事における「山口移鎮」の解説

1863年文久9年3月27日、敬親は藩士対し、「采地帰住令」を発し4月16日には「日帰り湯治」と称して山口後河原屋敷移りそのまま山口永住することを発表藩庁山口移した激動化する幕末情勢の中、攘夷決行に際して艦砲攻撃に弱いと考えられよりも山口の方が指揮相応しいと考えたためである(山口移鎮)。これにより、輝元入城以来259年にも渡り人口4万人中国地方有数城下町発展した城下町としての歴史に幕下ろした明治維新後、堀内地区中心とした上級武家地は旧士族授産のための夏みかん畑に転用され、 中下武家地多くが、宅地内に夏みかん畑を持つ住宅街となった町人地においては町家近代化進められた。寺院神社統廃合はあったものの、ほぼそのまま位置存続した。城下町基本構造は現在まで受け継がれている。

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