小村-ウェーバー協定
小村・ウェーバー協定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 14:16 UTC 版)
小村・ウェーバー協定(こむら・ウェーバーきょうてい)は、1896年5月、李氏朝鮮の首都漢城府(現、大韓民国ソウル特別市)において結ばれた、朝鮮問題に関する日本帝国・ロシア帝国間の覚書[1]。駐朝鮮日本公使の小村壽太郎と駐朝鮮ロシア公使ヴェーバー(ウェーバー)によって調印されたため、この名がある[1]。小村・ウェーバー覚書(こむら・ウェーバーおぼえがき)あるいは第1次日露議定書(だいいちじにちろぎていしょ)と呼ばれることも多い。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g コトバンク「小村・ウェーバー協定」
- ^ a b c 半藤(1983)p.66
- ^ a b c d e f g 杵淵(1997)pp.224-226
- ^ 朝鮮王朝実録(1983)pp.348-349
- ^ 杵淵(1997)pp.226-227
- ^ a b c 杵淵(1997)p.228-229
- ^ a b 半藤(1983)pp.93-94
- ^ 古屋(1966)pp.28-29
- 1 小村・ウェーバー協定とは
- 2 小村・ウェーバー協定の概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
小村・ウェーバー協定
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「カール・イバノビッチ・ヴェーバー」の記事における「小村・ウェーバー協定」の解説
「小村・ウェーバー協定」も参照 1896年5月に大日本帝国の外交官・小村寿太郎との間に小村・ウェーバー覚書を交わし、ロシアが4個中隊を朝鮮半島に配置する権利を認めさせ、かつ日本に新内閣の承認を求めた。しかしながら、1897年9月、シュペイエルがヴェーバーの代わりに来るに至り、ヴェーバーはサンクトペテルブルクへ帰任した。 ヴェーバーは日露戦争前夜の1903年4月、高宗との会談のためにロシアの公的資格で再びソウルを訪れた。彼はロシア最高の勲章である聖アンドリュー勲章を受章している。
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