小杉左近とは? わかりやすく解説

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小杉左近

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/29 09:05 UTC 版)

 
小杉左近
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
主君 武田信玄
氏族 小杉氏
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小杉 左近(こすぎ さこん)は、戦国時代武将。実名は不明。甲斐武田氏の近習を務めた。「家康に過ぎたるものが」から始まる有名な狂歌を書いたとされている。

略歴

元亀3年(1572年)10月12日、武田信玄織田信長徳川家康を討って上洛を果たす為に躑躅ヶ崎館を出陣した。この出陣の前に信玄は山県昌景率いる別働隊5000を三河国に、秋山虎繁率いる伊那衆を美濃国へと派遣した。北条氏政からの援軍も合わせた総勢3万の軍勢で武田軍は徳川領に侵入。山県昌景の手によって山家三方衆は降伏、また井平城、只来城、飯田城、秋山信友の手によって岩付城が陥落、そして天野景貫の犬居城も降伏し、状況は武田方が優勢に、反対に徳川方が大きく劣勢となった。武田軍の動静を測るため、家康は内藤信成本多忠勝を威力偵察として行かせ、家康自身も3000の軍勢を率いて浜松城を出陣した。だが、偵察のはずであった内藤・本多隊と武田軍の軍勢が遭遇した。

偶然の遭遇戦で陣形もまだ整えきっておらず、坂の下で不利な地形にいる徳川軍に対し、武田方の馬場信春が突撃すると同時に逃げ道を塞ごうとした。対する内藤・本多勢は撤退したが、追いつかれてしまった。本多忠勝は、本隊と内藤隊を逃がす為、自ら殿(しんがり)を引き受けた。前から突撃してくる馬場隊に本多隊は3陣の内第2陣まで突き崩された。本多隊は坂の下で退路を塞いでいる敵隊に正面から突入する、いわゆる敵中突破での戦場離脱を図った。この隊の隊長は部下に、本多隊に道を空けるよう指示した。

本多忠勝はその隊の隊長に対し、「武士の情けを心得ている者と見た、お名前を」と問うた。これに対し、隊の隊長は「小杉左近と申す。乱心者、早うわしの気が変わらぬうちに行かれよ」と答えた。

後日、一言坂に狂歌でつづられた落書が落ちていた。

家康ニ過ギタルモノガ二ツアリ、唐ノ頭ニ本多平八

書いたのはほかならぬ小杉左近であった。この落書で本多忠勝の武名は近隣に轟いたとされる。ただし後世の研究において、別人が書いたとされている。[1]

なお、この坂の上での戦いを一言坂の戦いといい、三方ヶ原の戦いの前哨戦にあたる。

脚注

  1. ^ 実際は、信其なる人物が日記で若き頃の忠勝を歌ったもの。 - 大日本近世史料 細川家史料二. 東京大学出版会. (1970-03-31) 



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