学生時代と私生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 18:45 UTC 版)
「ジョン・フレミング」の記事における「学生時代と私生活」の解説
フレミングが学校に通い始めたのは10歳のときで、特に幾何学が得意だった。それ以前は母から教えられていて、Child's Guide to Knowledge という子供向けの本をよく読んでいた。大人になってからも、その本から引用することがあった。University College School に進学し、数学では優秀だったが、ラテン語ではいつも成績が悪かった。 子供のころから技師になりたいと思っていた。11歳のとき自分の工房を持ち、エンジンつきの船の模型を作っている。またカメラを自作しており、生涯に渡って写真撮影を趣味とした。色々なものを作るのに必要な資金は一家の財政ではまかなえず、学校に通うと同時に働いて稼いだ。 ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンでは数学者オーガスタス・ド・モルガンと物理学者 George Carey Foster に師事し、学士号を取得して1870年に卒業。その後 Royal College of Science(現在のインペリアル・カレッジ・ロンドン)で化学を学ぶ。そこで初めてボルタ電池に出会い、最初の論文のテーマに選んだ。当時新たに創設されたロンドン物理学会(現在のイギリス物理学会)に最初に提出された論文で、同会の議事録1巻目の最初のページに記されている。金銭的に行き詰ってきたため働き始め、1874年夏にはパブリックスクールで科学講師をして年に400ポンドを稼いだ。独自の研究も続け、ケンブリッジ大学のジェームズ・クラーク・マクスウェルに師事。彼が受けたマクスウェルの講義は非常に難解だった。フレミングによればマクスウェルの講義は不明瞭な部分が多く、「逆説的で暗示的な言い方」が多かったという。時には聴講生がフレミング1人だけということもあったという。今度は化学と物理学で首席で卒業。その後ケンブリッジ大学で1年間機械工学実験の実演者として勤め、ノッティンガム大学で物理学と数学の教授になったものの、1年以内に他に移った。 1887年6月11日、バースの法務官の娘と結婚。その妻とは死別し(1917年)、1928年7月27日にブリストルの歌手と結婚した。
※この「学生時代と私生活」の解説は、「ジョン・フレミング」の解説の一部です。
「学生時代と私生活」を含む「ジョン・フレミング」の記事については、「ジョン・フレミング」の概要を参照ください。
- 学生時代と私生活のページへのリンク