子孫・同族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 15:12 UTC 版)
子に那沛故が、孫に船王後がおり、子孫はのち連姓に改姓し、さらに一部は天長年間(830年頃)に御船氏(御船連・御船宿禰)に改姓している。 延暦9年(790年)に菅野朝臣姓を賜る事を請願した百済王仁貞・元信・忠信および津真道らの上表によれば、辰爾には兄の味沙と弟の麻呂がおり、それぞれ葛井連・津連の租である。また、これに合致する形で新撰姓氏録において辰孫王の後裔に相当する氏族に、右京の菅野朝臣・葛井宿禰・宮原宿禰・津宿禰・中科宿禰・船連のほか摂津国の船連などがみえる。 『日本書紀』によれば、欽明天皇三十年(569年)には王辰爾の甥の胆津が白猪屯倉に派遣され、田部の丁籍が定められた。これにより胆津には白猪史の姓が授けられ、田令に任ぜられた。さらに敏達天皇三年(574年)10月には船史王辰爾の弟の牛が津史姓を与えられた。 『日本書紀』によると王辰爾は船賦を数え録したことを称えられ、船史の氏姓を賜り、王辰爾の甥である胆津が白猪史、さらに王辰爾の弟の王牛が津史の氏姓を賜った。後にそれぞれ連を賜り、さらにその後、船史は宮原宿禰、津史が菅野朝臣、白猪史が葛井連の氏姓を賜った。彼らの祖は古く応神朝の時に日本に来た辰孫王とする伝承もあるが、これは創作であり、実際は王辰爾からはじまった氏族とされる。
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