嫁取り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/16 02:21 UTC 版)
『三国史記』新羅本紀・憲安王紀に拠れば、憲安王の4年(860年)9月、王が臨海殿で群臣と宴会をしているとき、王族の膺廉は15歳にして宴会に出席しており、前のほうへ座っていた。憲安王が膺廉の志を試すために「善人を見たことがあるか」と問うたところ、膺廉は「身分の高い門閥の子弟であるにもかかわらず人と会うときには末席に在ろうとする人、富裕であるにも関わらず粗末な着物をきている人、権勢を持っていながら他人に圧力を加えない人、これら3人が善人だったと思います」と答えた。これを聞いた憲安王は膺廉の優れた資質に感激し、王の娘を嫁として与えようと考えた。20歳の姉と19歳の妹のいずれを娶るかを問うたが、膺廉は丁重に礼を述べるだけで姉妹のいずれとも答えずに退去した。膺廉がこのことを父母に相談したところ、父母は「妹の方が器量が良いという噂なので、妹を娶るのがよいだろう」と諭した。決心のつきかねた膺廉は興輪寺の僧に相談したところ、その僧は「姉を娶れば三つの利益があり、妹を娶れば三つの損失があるだろう」と教えた。結局は膺廉は姉妹のいずれかを自ら決めることはせず、憲安王には「王の命に従います」と答え、王は姉(寧花夫人)を降嫁させた。憲安王が亡くなるときに王子がなかったため、王の遺言に従って膺廉は即位した。 即位した景文王は寧花夫人の妹を次妃として迎え入れた。後に興輪寺の僧にあって「姉を娶った場合の三つの利益とは何か」と尋ねたところ、僧は「憲安王の意に適って寵愛を深めたことがその1、その結果、王位を継ぐことができたのがその2、そして器量の優れた妹を娶ることができたことがその3です」と答え、景文王は大笑いした、という。 同様の話が『三国遺事』紀異・景文大王条にも伝わるが、憲安王との会話のあった宴会のときに、膺廉は20歳であったとされている。また、三つの特失を語ったのは範教師というものであり、後日三つの利益の話を聞いた景文王は範教師に大徳の位と金130両を賜った、としている。
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