奴隷にとっての自由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 22:49 UTC 版)
「バルバリア海賊」の記事における「奴隷にとっての自由」の解説
バーバリの奴隷は身代金の支払いで解放されることを期待できた。仲介者や慈善事業で身代金を調達する動きがあったが、それでも自由を得るのは大変難しかった。奴隷を身請けする資金集めが増えると、北アフリカ諸国は身代金を釣り上げた。身代金の不足だけが問題ではなかった。奴隷はその家族に捕まったことを報せ、身代金の額を伝える必要があったが、べらぼうに高い郵便料金を負担し(奴隷は払えないことが多かった)、それが配達されるまで数か月も待つ必要があった。 身代金が払われると、奴隷は港で身請けが完了するのを待った。17世紀や18世紀のある場合は、疫病の恐れがあったので、検疫のためにこの港に留められることがあった。 バーバリの奴隷の多くは身請けに依存できなかった。身請けにはそれだけの価値があると見なされる必要があった。多くの貧しい人々は母国に戻されることが無かった。奴隷の身請け金は通常船における有益性に基づいて変化した。船長は通常の船員よりも高かった。脱走がもう1つの可能性だったが滅多に成功することは無かった。『ドン・キホーテ』の作者ミゲル・デ・セルバンテスが捕虜になって奴隷とされ、4度脱走を試みたが成功せず、結局はその家族に身請けされた。最も有名な逃亡奴隷がトマス・ペローであり、その物語が1740年に出版された。何度か逃亡を試みては失敗し、危うく殺されそうにもなった。最後は1738年7月にジブラルタルまで逃亡することができた。
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