失意の結果に終わった東京オリンピック、5度目の日本最高記録更新
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 09:00 UTC 版)
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1964年東京オリンピックには、円谷幸吉(3位)、君原健二(8位)と共に出場したが、最も持ちタイムがよかったものの15位と失意の結果に終った。一時は現役引退を考えるも、その年の11月に参加した朝日国際マラソンで2時間14分48.2秒の日本最高記録で優勝。さらに次に参加した1965年2月の別府大分毎日マラソンで再度日本最高記録を更新、これが4度目の日本最高記録更新となった。別府大分毎日マラソンは4大会連続優勝となった。4大会連続での優勝は唯一の選手である。 その後も日本のトップ選手の1人として活躍し、1965年6月のポリテクニック・ハリアーズ・マラソン(ウィンザーマラソン)では5度目の日本最高記録を更新、自己ベストとなる2時間13分41秒を記録した。このとき同時に出場した重松森雄が2時間12分00秒の世界最高記録で優勝している。 マラソン競技の傍らで国民体育大会の35kmロードに大阪府代表として参加、1963年山口国体、1964年新潟国体、1965年岐阜国体で3年連続で優勝し、3連覇を果たしている。1965年には金栗記念熊日30キロロードレースで1時間31分52秒のタイムで優勝し、これは30km走での世界最高記録更新となった。
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