大蛇退治
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鎌倉時代。当時の領主・佐原十郎義連は、村人の恐れるこの大蛇を退治するため、家来50~60人(12人という説もある)を率いて船や筏で沼に進み出でた。 義連たちが大蛇を罵る言葉を吐くと、空が曇って雷鳴が轟き、大入道が現れた。義連たちはこれぞ大蛇の化身と立ち向かったが、荒れ狂う波に船が揺れて自由に戦うことができず、波の中へ姿を消してしまった。湖畔で待機していた家来たちはどうすることもできず、ただ慌てるばかりであった。 やがて荒波と共に、大蛇が苦しみつつ姿を現した。その頭には義連が跨って刀を振りかざしていた。家来たちもろとも大蛇に飲み込まれながらも、刀で大蛇の腹を斬り裂いて脱出したのだ。本来なら蛇の腹の中の猛毒で命を落とすはずであったが、彼の兜に縫い付けられていた金の観音菩薩が蛇の毒から身を護ってくれたのであった。 こうして大蛇は退治され、義連はその頭を斬り落として土に埋めた。その後も大蛇の怨念は地の底から機を織るような音をさせたので、祟りを鎮めるため、人々は神社を建てて大蛇を祀ったという。この神社は、現在においても沼御前神社として金山町に実在する。 沼沢湖では、この伝説を再現した「湖水祭り・大蛇退治」が毎年8月の第一日曜日に開催されている。
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大蛇退治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 17:51 UTC 版)
日龍丸は3歳のときに父・俊祐と死別し、7歳のときに御門から近江国見馴川で倉光・ 喰介という2匹の大蛇を退治せよと大事の宣旨が下った。2匹の大蛇は日龍丸の伯父を名乗るが、家宝の角突弓に神通の鏑矢で退治した。大蛇を討って凱旋した日龍丸に将軍の宣旨が下って俊仁将軍と名乗った。
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