塩冶興久の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 17:16 UTC 版)
享禄元年(1528年)、再び経久は自ら備後国へと赴き多賀山氏の蔀山城を攻めこれを陥落させるも、同年5月には石見国における尼子方の高橋氏が毛利・和智氏により滅ぼされている。 享禄3年(1530年)、三男・塩冶興久が、反尼子派であることを鮮明にして内紛が勃発した。この時に興久は出雲大社・鰐淵寺・三沢氏・多賀氏・備後の山内氏等の諸勢力を味方に付けており、大規模な反乱であったことが窺える。また、同時期には興久は大内氏に援助を求めており、経久も同じ時期に文を持って伝えている。結局の所、消極的ながら大内氏は経久側を支援する立場になっている。当時の大内氏家臣・陶興房が享禄3年5月28日に記した書状を見るにしても、興久は経久と真っ向から対立しており、更には経久の攻撃を何度も退けていることが窺える。また、大内氏は両者から支援を求められるも、最終的には経久側を支援しており、尼子氏と和睦している。 だが、この反乱は天文3年(1534年)に鎮圧され、興久は備後山内氏の甲立城に逃れた後、甥である詮久の攻撃等もあり自害した。その後に首検証の為、塩漬けにした興久の首を尼子側へ送っている。興久の遺領は経久の次男・尼子国久が継いだ。また、同時期には隠岐国の国人・隠岐為清が反乱を起こしているが、すぐに鎮圧されている。同年には詮久は美作国へと侵攻し、これを尼子氏の影響下に置く。また、その後も備前へと侵攻するなど勢力を徐々に東へと拡大していった。この後、詮久は大友氏と共に反大内氏包囲網に参加している。
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