城陽中学校の沿革とは? わかりやすく解説

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城陽中学校の沿革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 13:43 UTC 版)

城陽市立城陽中学校」の記事における「城陽中学校の沿革」の解説

城陽中学校開校後は、城陽町で唯一の中学校として機能した1960年には雨天時の集会体育授業が可能となる体育館完成し1967年には学校給食開始された。1971年にはプール設置された。1972年5月には城陽町の人増加に伴う市制施行により、城陽市立城陽中学校改称した1970年代に入ると城陽中学校急激な生徒数増加見舞われていた。1970年代前半第一次マンモス期と呼ばれ1972年には教室の不足により、プレハブ校舎4教室設置された。1970年城陽中学校生徒数は1057人であったが、1973年には1602名に達したマンモス校化した城陽中学校過密状態を解消すべく、1974年には城陽市で2校目の中学校となる城陽市立西城陽中学校開校した西城中学校分離により、城陽中学校生徒数は1057人へ減少しプレハブ教室解消実現された。 西城中学校分離後生徒数増加続き1970年代後半第二次マンモス期と呼ばれた1977年には生徒数1500人を突破した1979年には城陽市3番目の中学校となる城陽市立南城陽中学校開校した。しかし、南城中学校開校直後生徒数1200人を超える水準依然として多く第三次マンモスとなっていた。 1981年には城陽市4番目の中学校となる城陽市立東城陽中学校分離開校することにより、城陽中学校生徒数613人に減少しマンモス校状態は解消された。翌年1982年城陽中学校東校舎鉄筋コンクリート化と、体育館改修工事竣工した。更に1986年には校舎改築事業全て竣工し市立学校唯一残っていた木造校舎解消されることとなった

※この「城陽中学校の沿革」の解説は、「城陽市立城陽中学校」の解説の一部です。
「城陽中学校の沿革」を含む「城陽市立城陽中学校」の記事については、「城陽市立城陽中学校」の概要を参照ください。

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