国営化と終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/26 07:31 UTC 版)
会議の結果を受け天図軽便鉄路は南満洲太興から離脱し、南満州鉄道の子会社となった。その後は敦図鉄路の工事であったが、1928年から猛烈な建設反対運動が数年にわたり続き工事は停止状態となった。 1931年に満州事変が発生、1932年3月1日に満州国が建国されたことで状況は一変する。5月の閣議で経路問題については南北両方のルートを採用すること、その敷設資金は南満州鉄道が調達し最終的には満州国営とすること、天図軽便鉄路の債権は南満州鉄道が直接持つことが決定された。これにより、結果的に吉会鉄路問題は正式に吉敦鉄路延長案が採用されることとなり、経路問題も南北両立が正式決定された。これにより天図軽便鉄路は間島権益確保における重要な地位を喪失することとなった。 1933年2月9日、満州国政府は国内の鉄道のうち、奉天軍閥から継承した路線及び日本が利権を有する路線を接収、「満州国有鉄道」を成立させた。天図軽便鉄路も国営化されることとなったが、国鉄線の一部とはならず、国営企業の形態が残され経営権のみが3月1日に南満州鉄道に委託された。 一方、敦図鉄路は京図線と改称され延長工事を開始、5月15日に全線開通し吉会鉄路が完成した。この路線は南北二つあった経路のうち北廻り経路に相当するものであり、事実上の新線建設であったため、重複する天図軽便鉄路本線の老頭溝-朝陽川間及び支線の朝陽川-延吉間が廃止となり、朝陽川駅が国鉄線の駅に統合された。 1934年4月1日には朝陽川を起点とする南廻り経路が朝開線として新規開業、これにより天図軽便鉄路の朝陽川 - 開山屯間が廃止され、天図軽便鉄路は全線が廃止されることとなった。 その後の日本海経由の日満連絡経路は北廻り経路が主流となり、元天図軽便鉄路の半分以上を占める南廻り経路は主要輸送から外されることとなった。
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