和解政策
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1853年9月6日、カルネイロ・レオンが首相に任命された。彼は当時保守党党首であり、ブラジルにおける影響力の最も強い政治家だった。ペドロ2世は和解政策という野心的な政策を推進しようとした。和解政策の目的は1830年代に復帰派が始まり、その後に自由派が継続した党派紛争を終わらせることだった。1842年と1848年のように、選挙に敗れた政党が武力による権力奪取を試みるのが常だった。和解政策がとられるようになってからは、政争は議会で民主的に解決しなければならず、両党ともに党派心だけではなく、国の公益のために行動することを求められた。 カルネイロ・レオンは自由党の一部に保守党への加入を要請、一部には閣僚にするよう誘った。その結果、内閣は最初から政争に見舞われた。すなわち、旧来の保守党員は直近に加入した党員が本心から保守党の思想を信じているのではなく、公職につくために入党しただけと疑った。カルネイロ・レオンはこれらの疑いと脅かしをはねつけて政策を推進、ブラジル初の鉄道、蒸気船を採用した定期客船、下水道、ガス街灯などを建設、ヨーロッパからの移民招致の新しい試みを行った。 1856年9月にカルネイロ・レオンが急死すると、内閣も数か月後に崩壊した。ペドロ2世は最初は和解政策を批判したが、やがて政策がもたらす利益を知るとその継続に前向きになった。これによりカルネイロ・レオン内閣はカシアス侯爵を首相として1857年5月4日まで存続した。 和解政策に反対した伝統的な保守派はイタボライ子爵、エウゼビオ・デ・ケイロス(ポルトガル語版)、ウルグアイ子爵という「サクアレマ三巨頭」を指導者としており、保守党も「サクアレマ党」として知られた。この名前はイタボライ子爵がコーヒーのプランテーションを所有していたリオデジャネイロ州のサクアレマ(英語版)を起源としている。サクアレマ三巨頭はカルネイロ・レオンと同世代の政治家であり、カルネイロ・レオンの死後に保守党の指導者になった。この時期の保守党は名前こそ保守であったが、多くの政策で政敵の自由党よりも進歩的だった。
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