名鉄へ吸収合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/14 19:14 UTC 版)
碧海電気鉄道線の営業成績は開通以来低迷を続け、株式配当は終始1 %に留まった。しかし、1941年(昭和16年)に勃発した太平洋戦争の激化に伴う戦時体制への移行により、名鉄西尾線の岡崎新 - 西尾間が1943年(昭和18年)12月に不要不急線に指定され路線休止となったため、以降碧海電気鉄道線は西尾町と名古屋方面を今村乗り換えで結ぶ唯一の鉄道路線として重用されるようになった。 その後、陸上交通事業調整法を背景とした地域交通事業者の統合が行政より事実上強制されるようになったことを受けて、親会社の名鉄はそのような時流に沿う形で自社路線に隣接する鉄道事業者の統合を進め、碧海電気鉄道は1944年(昭和19年)3月1日付で名鉄へ吸収合併された。合併比率は名鉄10に対して碧海5.5とされ、従業員は現給のまま名鉄へ転籍扱いとなり、保有路線・鉄道車両もすべて名鉄へ継承された。 合併後の碧海電気鉄道線は、西尾線の残存区間である西尾 - 三河吉田間と系統が統合されて「碧西線」と称されたのち、戦後の1948年(昭和23年)5月に路線名称を「西尾線」と改称した。
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