南中平定と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 14:56 UTC 版)
328年、叔父の李驤が亡くなると、子の李寿を大将軍・西夷校尉に任じた。330年10月、李寿に征南将軍費黒と征東将軍任巳を率いさせて巴東攻略を命じた。李寿は巴東を陥落させ、巴東郡太守楊謙は建平まで撤退した。李寿が費黒に別軍を与えて建平を攻撃させ、東晋の巴東監軍毌丘奥は宜都まで撤退した。332年、李雄は再び李寿に命じ、費黒と邵攀を前鋒として朱提を攻撃させた。また、鎮南将軍任回を派遣して木落を攻撃させ、寧州兵を分割してそれぞれ援軍として派遣した。333年3月、寧州刺史尹奉は降伏し、遂に南中の地を併呑した。李雄は領内に大赦を下し、李班に命じて寧州の夷を平定させた。功績により、李班は撫軍に任じられた。 334年6月、李雄は頭に瘍を負い、六日後に亡くなった。享年61、在位期間は30年であった。武皇帝と諡され、廟号は太宗、墓号は安都陵とされた。
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