十三湊
読み方:トサミナト(tosaminato)
十三湊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/13 04:10 UTC 版)
十三湊(とさみなと)は、日本の本州島の津軽半島北西部に所在する十三湖(※往時は内海であった)の西岸、現在行政上の青森県五所川原市十三(明治初期の西津軽郡十三村、江戸時代の陸奥国津軽郡十三村、中世期の陸奥国津軽郡域)にあって[1]、13世紀初頭から15世紀半ば(鎌倉時代後期前葉から戦国時代初頭)にかけての中世期に[1]、蝦夷沙汰職(えぞ さたしき。蝦夷管領)を務めた安東氏(津軽の安藤氏)の下でとりわけ隆盛を極めた湊である[1]。
注釈
- ^ 『日本歴史』561号 1995、「平泉の世紀」高橋富雄 1999 P112
- ^ 藤原秀栄の十三湊整備は12世紀(初代福島城10世紀)、アイヌ文化期成立は13世紀後半であり時系列的にアイヌの十三湊参加はそれよりさらに後の安藤の時代となると県内(本州)にアイヌ遺跡・遺構がないこと鑑みてもアイヌ語由来である根拠は薄い
- ^ 「十三湖」「十三村」「字十三」など、「十三湊」関連以外は江戸時代後期以降の読みを踏襲している。
- ^ 五所川原市十三古中道61(地図 - Google マップ)
- ^ 正確を期せば、津軽の安藤氏が「安東」を名乗るのは鎌倉幕府滅亡後のことであって、この時期はまだ「安藤」である。
- ^ a b 13世紀初頭に自然発生的に成立し、14世紀に拡充され、同世紀末から15世紀前半にかけて最盛期を迎えたと推定されている。(村井ほか『北の環日本海世界』、2002年)
- ^ 興国は南朝の元号。北朝の暦応3年に相当する。
出典
- ^ a b c d “十三湊遺跡”. 講談社『国指定史跡ガイド』、小学館『デジタル大辞泉』. コトバンク. 2018年6月10日閲覧。
- ^ a b 歴博>「よみがえる十三湊遺跡」
- ^ a b “中世・十三湊 〈五所川原市〉”. 奥津軽の旅案内(奥津軽観光ポータルサイト). 五所川原市観光協会、ほか. 2018年6月10日閲覧。
- ^ “十三湊(じゅうさんみなと)”. 小学館『日本大百科全書:ニッポニカ』. コトバンク. 2018年6月10日閲覧。
- ^ 十三湊遺跡 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ a b c d e f 石山晃子. “十三湊の「みなと文化」” (PDF). 港別みなと文化アーカイブス[1](公式ウェブサイト). 一般財団法人 みなと総合研究財団[2](WAVE). 2018年6月10日閲覧。
- ^ “夷島”. 平凡社『世界大百科事典』. コトバンク. 2018年6月10日閲覧。
- ^ 石山晃子. “野辺地湊(野辺地港・野辺地漁港)の「みなと文化」” (PDF). 港別みなと文化アーカイブス(公式ウェブサイト). 一般財団法人 みなと総合研究財団. 2018年6月10日閲覧。
- ^ “野辺地湊”. 平凡社『世界大百科事典』. コトバンク. 2018年6月10日閲覧。
- ^ “油川城と大浜”. あおもり 今・昔(公式ウェブサイト). 青森市 (1999年3月15日). 2018年6月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g “考古学からみた十三湖周辺地域” (PDF). 公式ウェブサイト. 中泊町博物館. 2018年6月11日閲覧。
- ^ “〈津軽で生まれる子らに〉十三湊の興亡”. 水土の礎(公式ウェブサイト). 一般社団法人 農業農村整備情報総合センター (ARIC)[3]. 2018年6月11日閲覧。
- ^ “魅力No.1391 朝もやの中で眠る遺跡”. 青森の魅力(公式ウェブサイト). 一企業(材 株式会社) (2011年1月17日). 2018年6月10日閲覧。
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