内堀埋立事業
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内堀と呼ばれた新道の北側の水域も、明治維新以後、埋立て計画が出ては消えを繰り返していた。その経緯は以下のとおり。 1888年、旧水戸藩士達が内堀埋立てて宅地とする事業の許可を得る。が、事業は着手されなかった。これにより内堀は土砂堆積や水草の繁茂といった荒廃が進んだ。 前述の内堀埋立許可による内堀荒廃が千波湖の用水不足を招いていると捉えた水利組合は内堀埋立許可撤廃運動を1893年から起こし、ついに1896年に内堀埋立許可を撤廃させた。これにより内堀は公用水面に戻り、荒廃していた内堀を1898年から1900年に浚渫している。 1911年、再度内堀埋立て計画が起きる。水戸市と水利組合等関係者の交渉の末、水戸市は内堀埋立ての承認を得る。が、経費面等の問題もあり工事はなかなか始まらなかった。 着手されていなかった内堀埋立工事であるが、千波湖改修事業が既に始まっている1926年8月9日の水戸市会でようやく埋立て工事が議決された。その内容は埋立て工事を東部分と西部分の2箇所に分け、その工事費用は埋立地の払下げ代金を充てる、というものであった。同年8月17日に執行された内堀埋立地の予約払下げ入札の結果、那珂郡長倉村の実業家で政治家の淀川藤八郎が落札した。同年、東内堀埋立工事の契約成立。1928年に西内堀埋立事業費の予算議決。大槻は1929年度には内堀埋立工事は完成したと見ている。
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