六全協と共産党の方針転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 05:12 UTC 版)
「国民的歴史学運動」の記事における「六全協と共産党の方針転換」の解説
1955年7月に開かれた六全協にて日本共産党は方針転換し、山村工作隊など所感派による武装闘争路線が「極左冒険主義」として総括され、査問の後、事実上除名処分となっていた国際派が復権した。これにより停滞状態に陥った国民的歴史学運動はとどめを刺される形となった。 同年11月に開かれた民科歴史部会の総会では、運動への総批判が展開され、「今迄の伝統的歴史学の成果をふまえていない」「一般学生層を性急に農民に結びつける政治的引き廻しがあった」「学会から孤立している」といった声が寄せられたという。 運動を牽引してきた松本や石母田は自己批判を迫られた結果、1956年に松本が、次いで1957年には石母田が、それぞれ自己批判の文章を公表するも、評価を得ることは皆無であった。犬丸義一に至っては、『歴史と民族の発見』を「この時期のマルクス主義史学の悪の見本」とまで酷評している。
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