党員の募集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/11 16:44 UTC 版)
「19世紀アメリカ合衆国の選挙運動」の記事における「党員の募集」の解説
1800年までには民主共和党が国中に党員を募集するための良く発達した制度を持っており、州や地方の政党指導者はそれに相当する制度を身近において使用した。ボストンの連邦党員は「ジャコバン(民主共和党のこと)は少なくともそれ自身の規律を完全にしてきた。我々の民兵が決して並ぶことのできないくらい、彼らは訓練され、組織化され、従属関係が形成されている」とこぼしていた。連邦党はその対向者の戦術を模倣し始めたが、常に貴族的であり過ぎたので、草の根運動の価値を尊重できなかった。連邦議会における民主共和党は党員集会で党の大統領候補を選んだが、連邦党は1812年に全国大会というより柔軟な仕組みを考案した。党員集会とは異なり、全国大会には各地区からの代表が集まっており、その代議員は候補者を選ぶという具体的任務のために選ばれていた。1830年代までに全国大会に参加する個人は党との関係を確認しており、大会で選出された候補者を支持するよう求められるという基準が確立された。候補者が選出される前に大会会場から抜け出すことは可能だった。これは1860年に南部民主党が、また1912年にセオドア・ルーズベルトの支持者が行ったことと同様だった。ニューヨーク州の民主党は個人的に硬派と軟派に分かれたが、ホイッグ党も同様に分裂することがあった。通常分裂後の両派は自分達の選んだ候補者が真に正統的な党の候補者だと主張した。 ウィリアム・ジェニングス・ブライアンは1896年に多数の党派にアピールする技法を完成させ、正規の民主党、銀共和党および正規の人民党の候補者として出馬した。各党の有権者はその所属党に対する忠誠心を曲げることなしにブライアンに投票することができた。その後間もなく、ほとんどの州は一人の候補者が異なる組み合わせで出馬することを禁じた。すなわち一人の人、一つの党、一つの綱領が通常の規則になった(ニューヨーク州は例外であり、1830年代以降に第三、第四、第五の政党が頭角を現した)。
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