元禄赤穂事件の批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:20 UTC 版)
義挙と人口に膾炙する赤穂事件につき、乃木は天皇陛下からの勅使を私怨での饗応放棄に加え「(欠字)寸のびの刀をさしてゆくこともず、更に後ろより斬りつけたる等々不心得も甚だし」など批判している。但し、乃木の主家である長府藩主・毛利師就は江戸城の松の廊下にて乱心した水野忠恒から刃傷を受け、師就は吉良義央に倣い刀を抜かずに対応し、重傷を負ったが一命をとりとめている。赤穂義士を毛利家は罪人として厳しく扱った記録が残り、令和の御代でもお預かり四家で唯一、一切の供養塔や墓の類が毛利藩邸には存在しない。また、乃木に影響を与えた吉田松陰は米沢藩の古学者とも交流があり、松陰神社の建てられた若林は吉良氏の領地だった。このため公正な第三者の意見とは言い難い面もある。
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