依頼と製作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 08:18 UTC 版)
「キーファーマルクトの祭壇画」の記事における「依頼と製作」の解説
近くのシュロス・ヴァインベルク(ドイツ語版)の領主であり、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の顧問だったクリストフ・フォン・ツェルキングが1470年から1476年の間にキーファーマルクト(ケーファーマルクト)の新しい教会の建立を依頼した。1490年に書かれた最後の遺言によって当人の死後も聖ヴォルフガング(英語版)に捧げられた祭壇画には分割払いで製作費が支払われた。遺言が書かれた時点で、祭壇画はすでに依頼されており、製作はすでに開始されていたようである。翌年、クリストフ・フォン・ツェルキングが亡くなり、この教会のクワイヤに埋葬された。祭壇画にはその起源を示す銘文やその他の手がかりはないが、いくつかの状況からクリストフ・フォン・ツェルキングによって依頼された祭壇画のままであることが示されている。1497年の領収書(のちに紛失)には祭壇画の最終的な支払いが記録されており、同年に祭壇画が教会に設置された可能性が示されている。教会の十字架(英語版)にも1497年の日付が印されており、それまでに教会が完成し、家具・備品などの内装が設けられていたことを示している 。 この祭壇画は「キーファーマルクト(ケーファーマルクト)の祭壇画の親方」(ドイツ語版)と呼ばれることの多い氏名不詳の主たる彫刻家によって作られた。彼は主たる彫刻家とともに中央部の2人の人物(聖ヴォルフガングと聖ペトロ)、翼部のレリーフ、および小さな彫像のほとんどを製作した工房の責任者だったと目されている。構造要素と上部構造は家具職人の工房で作られた可能性がある。主たる彫刻家の身元と工房の場所は長い間議論されてきた。その類まれな品質から、祭壇画はティルマン・リーメンシュナイダー、ファイト・シュトス(英語版)、ミヒャエル・パッハー(英語版)およびアルブレヒト・デューラーらによって作られたという説得力のある主張がなされている。ほとんどの学者は祭壇画を製作した工房がパッサウで活動していたと結論付けているが、パッサウ産の類似の作品は少数しか残されていないため、確定的な結論は出ていない。同様に、マーティン・クリーヒバウムが「キーファーマルクト(ケーファーマルクト)の祭壇画の親方」だとの主張もある。古文書の記録では彼は「画家」とされているが、これは必ずも木彫に熟練していないことを意味するわけではなく、オーバーエスターライヒ州およびニーダーエスターライヒ州で仕事を請け負っていたことが知られている。
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