今川氏輝とは? わかりやすく解説

今川氏輝(いまがわ うじてる) 1513~1536

龍王丸 五郎 上総介
◇父:今川氏親
 父の病死で、14歳駿河守今川氏当主となる。母寿桂尼輔佐を受け国政行い商業振興旗本馬廻衆設置などに取組むが、甲斐・武信虎との戦傷が元で若くして急死次弟五郎同時に死んでおり、謀殺されたともいわれる

今川氏輝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/05 23:50 UTC 版)

今川 氏輝(いまがわ うじてる)は、戦国時代駿河戦国大名今川氏の第10代当主。


注釈

  1. ^ 大石泰史は単なる歌会ではなく、妹の瑞渓院北条氏康に嫁ぐのに同行したとしている[1]
  2. ^ 『勝山記』には相模・駿河に隣接する甲斐・都留郡で天文5年に疫病発生の記事が載せられていること、冷泉為和の歌集から氏輝の小田原訪問には彦五郎が同行したのが確実であることから、一緒に行動していた氏輝と彦五郎が揃って疫病にかかったとしても不自然ではない、とする見方がある[2]

出典

  1. ^ 大石泰史 著「対立から同盟へ-今川義元・氏真と氏康の関係性-」、黒田基樹 編『北条氏康とその時代』戎光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年、263頁。ISBN 978-4-86403-391-6 
  2. ^ 平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』戎光祥出版〈中世武士選書4〉、2019年、239-240頁。ISBN 978-4-86403-335-0 


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今川氏輝(いまがわ うじてる)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 00:27 UTC 版)

センゴク外伝 桶狭間戦記」の記事における「今川氏輝(いまがわ うじてる)」の解説

氏親嫡男で、義元同母兄。父の死後家督相続する他国との争いから武将一人として梅岳承芳駿河召還した。父・氏親似た剛毅風貌だが、病を患っており始終咳き込んでいる。名君の子としての自尊心高く末弟である義元雪斎進言取り入れない。義元帰郷後、突如として継承第二位である次男・彦五郎同日に死を遂げる。

※この「今川氏輝(いまがわ うじてる)」の解説は、「センゴク外伝 桶狭間戦記」の解説の一部です。
「今川氏輝(いまがわ うじてる)」を含む「センゴク外伝 桶狭間戦記」の記事については、「センゴク外伝 桶狭間戦記」の概要を参照ください。

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