人事担当
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 07:45 UTC 版)
若い頃は県の役人となり、公正さで評判となった。戦乱を避けて荊州へ避難する事を考えたが、刺史である劉表の政治がいい加減なものであるという噂を聞き、丁度兗州に進軍してきた曹操から治中従事として招かれたため、これに応じた。献帝が長安を脱出し流浪していた時、これを保護する事を進言し、また帝の権威と農業で富ませた財力により、袁紹や劉表に対抗すべきと主張した。この進言が曹操に受け入れられ、毛玠は軍府の功曹に採り立てられた。 曹操が司空・丞相になると、東曹の掾となって崔琰と共に官吏の人事担当を任された。毛玠は清廉潔白を重んじ、官吏に清廉な人物しか登用しなかったため、高官にあるものでさえ自ずと自身の行動を節制するようになった。曹操はこの状況を良しとした。 一方で毛玠は、他人からの要請を全く受け付けなかったという。曹操の子曹丕に身内の者の登用を頼まれた時、毛玠はこれですら拒絶した。このため周囲の人々から毛玠に対して不満が噴出し、東曹を廃止して西曹に一本化すべきという意見が出た。しかしこの時、曹操は毛玠を庇い、逆に西曹を廃止した。 後に右軍師へ昇進し、曹操が魏公となると尚書僕射となり、引き続き人事を担当した。曹植を可愛がる曹操を諌め、長幼の序をはっきりさせるべきだと進言した。曹操は毛玠を古人に準えて称えた。
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