五戸絲料
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五戸絲料の徴収内容について最も詳細な記録を残しているのが『秋潤先生大全文集』巻80「中堂事記(上)」である。 中統元年三月……諸の投下の五戸絲料(割注:訳語に阿合探馬児という)は自来、就いて州郡に徴す。堂議にいう。かくの如きはこれ恩、上に出でず、また政体において一ならずして、未だ便ならず。奏してゆるさるれば、みな大都の総蔵に喩し、毎歳、各投下をして官を差して省に赴かしめ、数を験して関支せしめんと。その法は、毎戸に絲二十二両四銭を科す。二戸計では絲二斤一十二両八銭にあたる。その二斤はすなわち官に納むる正絲に係わる。(その)内で正絲、色絲おのおの半ばすほか、毎戸のあまり六両四銭をもって、あつめて五戸に至らば、二斤の数目に満たして、本投下に付して支用せしむ。これを二五戸絲という。十分を以てこれを論ずれば、官に納むるもの七分、投下はその三を得る。諸投下五戸絲料(訳語曰阿合塔木児)自来就徴於州郡。堂議云、如此是恩不上出、事又不一於政体、未便。奏准、皆輸大都総蔵、毎歳令各投下差官赴省、験数関支。其法、毎戸科絲二十二両四銭。二戸計該絲二斤一十二両八銭。其二斤即係納官正絲。内正絲色絲各半外、将毎戸賸餘六両四銭儹至五戸、満二斤数目、付本投下支用。謂之二五戸絲。以十分論之、納官者七分、投下得其三焉。…… — 『秋潤先生大全文集』巻80「中堂事記(上)」 以上の記述を要約すると、「五戸絲とは1戸につき“絲22両4銭=1斤6両4銭”を供出させる税で、そのうち1斤を申央に、6両4銭を投下に納める税法である」となる。ただし、実際の徴収は「2斤」を単位としていたため、中央に納める分は「2戸ごとに2斤の徴収」、投下領主に納める分は「5戸ごとに2斤の徴収」となり、前者は全体の7割、後者は全体の3割を占める、というのが「中堂事記」の述べるところである。これを更に言い換えると、「五戸絲として集められた税収の内7分の5(5戸で5斤)が国税として国庫に入り、7分の2(5戸で2斤)が地方税として投下領主に与えられた」となる。 ただし、「2斤」が徴収単位となったのはクビライの即位(中統元年/1260年)以後のことで、『元史』巻93食貨志にはオゴデイ時代には「2戸ごとに絲1斤を出させた(毎二戸出絲一斤)」と記されている。すなわち、モンゴル帝国初期には「2戸ごとに絲1斤」が中央の、「5戸ごとに絲1斤」が投下領主の取り分とされ、ここから「五戸絲」の呼称が起こったものと考えられている。 また、『元史』巻5世祖本紀には1263年(中統4年)に「10戸ごとに絲14斤」を供出するよう定められたことが記録されているが、これも「中央の取り分(5戸ごとに5斤)」と「投下領主の取り分(5戸ごとに2斤)」をあわせた数に合致する。この記述により、大元ウルスでは投下領主に属する「五戸絲戸」のみならず、一般の「大数目戸(大官=皇帝に属する戸の意)」も一律に「5戸ごとに7斤(1戸あたり1斤6両4銭)」が徴収されていたことがわかる。
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