九条幸家
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九条 幸家(くじょう ゆきいえ)は、江戸時代初期の公家(公卿)・藤氏長者。藤原氏摂関家九条流の九条家の当主。関白・左大臣に昇った。初名は忠栄(ただひで)。また一字名として「句」「勻」とも。
注釈
- ^ 過去九条稙通に男子が無かった時、姻戚関係にあった二条家から養子が入った例がある。この人物が幸家の父兼孝で二条昭実の兄に当たり、康道が二条家へ養子入りした件はかつての逆が行われた形になった[7]。
- ^ この時期の三大臣人事は空席が目立ち、慶長16年1月時点では右大臣忠栄しかおらず、3月に信尚が内大臣になったが、左大臣は空席のままだった。慶長17年3月に忠栄と信尚がそれぞれ左大臣・右大臣に昇任、4月に信尹が大納言から内大臣に昇任したことで三大臣が揃った。その後忠栄は7月関白を辞任したが左大臣は辞任せず三大臣は埋まったままになった[12]。
- ^ 鶴姫は父忠直と母勝姫が従兄妹という関係で、父方の祖父結城秀康と母方の祖父徳川秀忠は兄弟だった。加えて、鶴姫の母勝姫が道房の母完子の異父妹という関係から、鶴姫と道房も従兄妹ということになる。ただし忠直は元和9年に乱行を理由に秀忠に隠居させられていたため、鶴姫は叔父家光の養女として道房に嫁いだ[20]。
- ^ 増孝と覚定は前述の通り義演からそれぞれ随心院と三宝院を継いだが、寛永3年の義演の死後両者は対立、寛永21年4月26日に覚定の父信房が調停に乗り出した。結末については不明だが、それから間もなく増孝が死去したことにより対立は解消に向かっていったとされる[23]。
- ^ 車争図屏風の内容は源氏物語第9帖「葵」に書かれた光源氏の正妻葵の上の一行と六条御息所の一行が牛車の場所を巡り争いを起こす、六条御息所の生霊に苦しんだ葵の上が死ぬという、一見新婚夫婦に相応しくない屏風に見える。しかし源氏物語第9帖全体で考えると、前半は不幸な話でも後半は葵の上を亡くした光源氏が紫の上と新手枕を交わす場面を、両者と年齢が近い幸家と完子に見立てたのではないかとされている。なお、御殿は内裏拡張のため慶長10年に移転を命じられた[33]。
- ^ 『御用留(四)』は九条家が京狩野に与えた恩を子孫に伝える内容で、1つ目は九条家より京狩野が士族身分を許されたこと、2つ目は山楽の助命、3つ目は山雪の助命が書いてある。幸家が幕府に働きかけた時期は禁中並公家諸法度を吟味していた慶長20年5月から7月とされるが、本朝画史が幸家の助命嘆願について書いていない点は、大坂の陣の残党狩りの記憶が残る時期に刊行すれば、九条家に迷惑をかけると判断した永納の隠蔽が疑われている[35][36]。
- ^ 美術史家五十嵐公一は山雪・伊織の裁判を調べ、当時の考えや推測なども交えた上で、重宗は借金を返済出来ない伊織に代わり山雪に返済を促すため伊織を留置、当事者間の話し合いによって解決させる内済を望んでいたと推測している。しかし山雪が返済を拒み伊織自身が返済することを考えていたため、再度の裁判で山雪が留置することになった。また五十嵐は揚屋から山雪が永納へ出した年代不明の5月10日付の手紙にも注目、文章にある「夢で聞いた託宣の行方を調べるように告げ、春日大明神なら九条大御所様の御社に参って欲しい」という永納への伝言は、寛永9年に春日大明神を勧請した九条家の屋敷鎮守社を指し、幸家へ助けを求める暗号を送ったのではないかとしている[44]。
出典
- ^ a b c d e f g h 野島寿三郎 1994, p. 267.
- ^ a b c d e f g h i 橋本政宣 2010, p. 51.
- ^ 五十嵐公一 2012, p. 17-19,71.
- ^ 五十嵐公一 2012, p. 20-26,57.
- ^ 宮本義己 2010, p. 171-173.
- ^ 五十嵐公一 2012, p. 28-32.
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- ^ 五十嵐公一 2012, p. 34-38.
- ^ 久保貴子 2008, p. 22-23.
- ^ 五十嵐公一 2012, p. 38-40.
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- ^ 久保貴子 2008, p. 23-25.
- ^ 五十嵐公一 2012, p. 40-41.
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- ^ 久保貴子 2008, p. 73-75.
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- ^ 久保貴子 2008, p. 143.
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- ^ 脇坂淳 2010, p. 4-5.
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- ^ 五十嵐公一 2021, p. 144-152,157-161.
- ^ 脇坂淳 2010, p. 35.
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- ^ 脇坂淳 2010, p. 56-57.
- ^ 五十嵐公一 2012, p. 185-193.
- ^ 五十嵐公一 2012, p. 212-214.
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