主な石工とは? わかりやすく解説

主な石工

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 04:21 UTC 版)

高遠石工」の記事における「主な石工」の解説

守屋 貞治(もりや さだじ、1765年 - 1832年)- 明和2年1765年)に信州伊那郡高遠藤澤郷塩供(しおく、現在の長野県伊那市高遠町長藤〈おさふじ〉塩供)で孫兵衛の3男として生まれる。高遠石工中でも稀代名工と言われ68年生涯336体の石仏残している。亡くなる前年天保2年1831年)に「石仏菩薩細工」を書き残しており、いつどこで何の石仏刻んだのかが、その正確な記録から判明している。この記録によって、彼の作品は1都9県(長野群馬東京神奈川山梨岐阜愛知三重兵庫山口)に残っていることが確認されているが、数多く石工輩出した高遠石工にあって西日本にまで作品残しているのは貞治だけである。貞治信州諏訪温泉寺名僧、願王和尚を師と仰ぎ深く仏門帰依し、香を焚き経を唱えて石仏刻んだ伝えられ、ゆえに貞治は単に石工ではなく石仏師」と呼ばれ貞治刻んだ石仏は特に「貞治仏」と呼ばれている。 守屋 孫兵衛まごべえ生年不明 - 1782年) - 貞治の父 守屋 貞七(さだしち、1700年頃 - 没年不明) - 貞治祖父向山左衛門むかいやま じゅうざえもん、1690年頃 - 1773年) - 寛延から明和年間作品が残る高遠藤澤御堂垣外(みどがいと)の石工。 久左衛門きゅうざえもん、生没年不詳) - 向山左衛門弟弟子下平左右門(しもだいら ぶんざえもん、生没年不詳) - 明和から安永 (元号)年間中心に活動した安永東春近石工。なお、息子の太左右門(たざえもん)も石工である 。 渋谷 藤兵衛(しぶや とうべえ1784年 - 1853年) - 守屋貞治高弟信州伊那郡川下り郷川手(現在の長野県伊那市美篶下川手)に生まれる。伊那市高遠町建福寺石段には師貞治の延命地蔵石段左に、藤兵衛観音嘉永2年1849年)が石段右に対になって立っている。上伊那郡箕輪町長岡長松寺に残る貞治延命地蔵尊は、まず藤兵衛先に長岡来て世話人打ち合わせと石の詮議をし、村人足とともに石を切り出して下準備をした後に貞治作業始まっている。これは同寺の「地蔵建立入用控帳」に残されており、それには「石屋定治郎 手代藤兵衛」と記されている。 小笠原 政平(おがさわら まさへい、1796年 - 1861年) - 信州伊那郡殿島現在の伊那市東春近下殿島)に生まれる。東春近中心に作品が残るが「俺の石仏は銘がなくとも頬骨ふくらみ見ればそれとわかる」と言っていたとの言い伝えがある。

※この「主な石工」の解説は、「高遠石工」の解説の一部です。
「主な石工」を含む「高遠石工」の記事については、「高遠石工」の概要を参照ください。

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