丹党
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丹党(たんとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国入間郡・秩父郡・および児玉郡西部(旧賀美郡)にわたって繁栄した武蔵七党の一つである武士団。
注釈
- ^ 『武蔵七党系図』では、多治比嶋の子丹治家範(『井戸葉栗系図』では弟で家野里とする)、その子丹治家隆(同じく家鷹)から始まる系図を記すが、家範(家野里)を推古朝の人、家隆を皇極朝の人としており、文武朝の大臣である嶋の子孫とするには年代的に矛盾。また、『丹治氏青木系図』(『寛永諸家系図伝』所収)では、宣化天皇の皇子に檜隈皇子その子に家範とし、家範が継体朝で宿禰姓を賜与されたとの記述があるが、宿禰姓は天武朝に八色の姓として定められた姓の一つであり、やはり年代的に矛盾する。さらに、「家範」「家隆」という名前も飛鳥時代にそぐわない。なお、『寛政重修諸家譜』(657巻,丹治氏条)では、『寛永諸家系図伝』所収の系図を信用できないと断じている。
- ^ この他、異説として丹党の祖丹生武信の父に多治比県守の玄孫多治今継を充てる系図(『勅使河原氏之系譜』(『埼玉叢書』第4 所収))や、多治比広成の孫丹墀貞成の二人の子のうち兄の峰成は私市党の祖、弟の貞峰が丹党の祖だとする説(『新編武蔵風土記稿』騎西久伊豆神社条など[2]がある。
- ^ 「ひのくまのとねりのあたえ」と読み、太田亮は出雲氏族で武蔵国造家の一族と推定している。
- ^ 太田亮はこの説の根拠として、以下3つの理由を挙げている。①丹党の勢力範囲は賀美郡を中心としたが、これは檜前舎人の分布領域(賀美郡・那珂郡)と一致している。②丹党が宣化天皇裔を称していることは、檜前舎人直が宣化天皇の御名代である檜前舎人部の伴造家であることと関連がある。③『丹治氏青木系図』において、丹党の祖として各種史書では見られない檜隈皇子をあげているのは、丹党の出自が檜前(=檜隈)舎人氏であることの反映である。[3]
出典
- 1 丹党とは
- 2 丹党の概要
丹党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 00:48 UTC 版)
詳細は「丹党」を参照 秩父から飯能にかけて活動。平安時代に関東に下った丹治氏(多治比真人)の子孫と称する。丹氏、加治氏、勅使河原氏、阿保氏、大関氏、中山氏、小串氏など。入間市や飯能市には加治氏に深い関わりを持つ加治神社、加治屋敷(加治丘陵)などの史跡があり、円照寺には鎌倉幕府滅亡をともにしたことを示す板碑が残っている。
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