下総国分尼寺跡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 文化 > 国指定文化財等データベース > 下総国分尼寺跡の意味・解説 

下総国分尼寺跡

名称: 下総国分尼寺跡
ふりがな しもうさこくぶんにじあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 千葉県
市区町村 市川市国分
管理団体
指定年月日 1967.12.27(昭和42.12.27)
指定基準 史3
特別指定年月日
追加指定年月日 平成14.09.20
解説文: S43-01-011下総国分尼寺跡.txt: 下総国分寺跡西北300メートルの地にあり、国分寺跡と同じ台地の上位置する昭和7年発掘調査により、「尼寺」と墨書した土器下総国分寺と同じ型式軒瓦等の遺物出土しているので、国分尼寺跡であることは明らかである。また、昭和42年調査結果、約32.5メートルへだてて南北に並ぶ基壇発見されたが、この2つ建物遺構は、金堂講堂の跡と考えてまちがいない
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  下府廃寺塔跡  下田原城跡  下総国分寺跡  下総国分尼寺跡  下総小金中野牧跡  下船塚古墳  下船渡貝塚

下総国分尼寺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:22 UTC 版)

下総国分寺」の記事における「下総国分尼寺跡」の解説

国分寺北東市川市国分4丁目(北緯3544分47.56秒 東経13954分46.70秒 / 北緯35.7465444度 東経139.9129722度 / 35.7465444; 139.9129722 (下総国分尼寺跡))に所在する1932年発掘調査金堂講堂基壇確認されるとともに尼寺と書かれた土器出土し位置確定至った。なおそれ以前は、当地はかつて「昔堂」と呼ばれ国分僧寺跡と考えられていた。 発掘調査により寺の範囲区画する溝が北・東・南で確認され、北溝は340メートル・東溝は303メートルに及び寺域不整な方形をなしている。現在は市川市営の国分尼寺公園として管理されている。 金堂 - 東西25.5メートル南北22.4メートル講堂 - 東西27メートル南北19メートル金堂講堂

※この「下総国分尼寺跡」の解説は、「下総国分寺」の解説の一部です。
「下総国分尼寺跡」を含む「下総国分寺」の記事については、「下総国分寺」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「下総国分尼寺跡」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「下総国分尼寺跡」の関連用語

下総国分尼寺跡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



下総国分尼寺跡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2024 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの下総国分寺 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS