ロンキ進軍とフィウーメ占拠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/08 14:54 UTC 版)
「カルナーロ=イタリア執政府」の記事における「ロンキ進軍とフィウーメ占拠」の解説
9月11日、ダンヌンツィオはロンキ・デイ・レジョナーリに集まった義勇兵とともに、フィウーメを目指して行進を開始した。翌12日、2600人にふくらんだ義勇兵はフィウーメに入城し、連合国軍を追い出した(フィウーメの占拠(イタリア語版))。ダンヌンツィオは司令官(Comandante)としてフィウーメの独裁統治を開始した。イタリア王国政府とフランチェスコ・サヴェリオ・ニッティ首相はこの占拠を認めず、海上と陸上を封鎖してフィウーメの経済封鎖をはかる一方で、ダンヌンツィオとの和平交渉も行っていた。しかし連合国の手前、ダンヌンツィオの要求するフィウーメのイタリアによる併合には踏み切れず、両者の交渉は完全に膠着状態となった。 この間連合国はアメリカ主導で調停案を作成し、20万人のユーゴスラビア人と4万人のイタリア人が含まれる緩衝国家としての「フィウーメ自由国家」の樹立を主眼とする覚書を10月27日にイタリア王国政府に提示した。イタリア王国政府は、ロンドン条約の境界線に基づく自由フィウーメ国家の成立を認めるが、イタリア人の権利とフィウーメの自治権を強化する反論を1920年1月6日に提示した。その後英仏とイタリアは協議して合意案を作成したが、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国がこの合意案を拒否したため、事態は暗礁に乗り上げた。 一方フィウーメでは、イタリア政府の和解案の是非を問う住民投票が12月に開催され、圧倒的多数で採択された。しかしダンヌンツィオはこの和解案を拒絶し、独裁色を強める一方で新たな計画を模索することになる。、
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