ロト L'Auto
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 09:56 UTC 版)
1900年のロト・ヴェロ紙創刊から3年後、パリ法廷はその新聞名が、ライバル紙ジファールのル・ヴェロ紙に似過ぎているという判決を下した。その結果、新しい新聞は「ヴェロ」を取って単にロト紙というようになった。ジファールが緑色の新聞紙を使用していたため、ロト紙は黄色い新聞紙に印刷した。 発行部数は不振だったが、それに対しては対応会議が1度開かれただけで、デグランジュはこれを「ジファールのくちばしを釘付けにするため」と称した。社屋はパリのフォーブル - モンマルトル通りにあったが、その1階のオフィスで、ジェオ・ルフェーヴルという23歳の自転車記者兼ラグビー記者が、フランス中を回るレースを提案した。その規模は他紙のレースをはるかに上回り、トラックレースの6日間レースに比肩しうるほどだった。 ツール・ド・フランスは新聞の成功につながった。発行部数はそれまでの25,000部から、1903年のレース後には65,000部に伸びた。1908年には250,000部以上になり、1923年のレース期間には日に500,000部が売れた。デグランジュによれば、最高販売部数は1933年のレース期間中に記録された854,000部であるという。 デグランジュは1940年に死去し、会社の所有はドイツの合弁企業に移った。新聞はナチス占領軍に迎合する記事を掲載し始め、戦争が終結すると発刊は停止された。ドイツの指示下で発行されていた新聞は、いずれも継続が許可されなかった。
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