ロシア正教会中国宣教団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 06:03 UTC 版)
「中国正教会」の記事における「ロシア正教会中国宣教団」の解説
元代にロシア正教会の最初の伝道者と信者の集団が中国入りを果たしたが、後代には伝わらなかった。 1684年に下級聖職者のマキシム・レオンチェフを伴う31人のロシア人の信徒が中国へ到来した。彼らは黒竜江支流のアルバジンで捕虜になり、北京に送られた。1685年、清朝の康熙帝は、ロシア領で捕らえたロシア系住民(アルバジン人)を清に移住させた。マキシム司祭は北京で最初の正教会の教会「聖ニコライ教会」を開いた。こうして正教会がシベリア経由で中国に再び入った。 正教会の清代以降で最初の宣教団は、1711年にマキシム司祭が永眠したことを受け、1713年にイオアン・マキシーモヴィッチ(トボリスクのイオアン)が編成したもので、1715年に北京に到着した。掌院イラリオン・レジャイスキーを団長とした。この宣教団の最初の記録は、1727年のキャフタ条約に現れる。宣教団は中国人一般への布教を禁じられ、アルバジン人とその後裔、通商のため北京に滞在するロシア人に司牧することのみ許された。後には、清朝が外交使節の駐在を認めるまで、ロシア大使館の役割も果たすようになった。 1858年の天津条約で布教が自由化されると、宣教団が再浮上する。宣教団は1850年代から1860年代にかけて4巻の中国学研究書を上梓した。この分野の研究で2人の修道士が有名になった。チュヴァシ人のイアキンフ・ビチュリンと、掌院パルラディ・カファロフである。彼らは非常に有用な辞書の編纂者であった。 19世紀には新疆にロシア人正教徒が移住し始め、20世紀に入ると多くの教会が設立された。
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