レーニン死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 03:05 UTC 版)
レーニンが持病の脳卒中で倒れた時、党の事務を統括する書記長の地位にあったスターリンにとって、革命と赤軍の英雄であり、また急進的な共産主義を望むトロツキーは邪魔な存在でしかなかった。そのため、レーニンの直参であり後継者とも目されていた政治局のジノヴィエフ、スターリンと親友であったカーメネフと組み、トロツキーの追い落としにかかる。 トロツキーは丁度ドイツとの軍事提携や白軍との戦いが最終段階に入っていた事もあり、仕事が忙しくてレーニンの見舞いにもあまり行けなかった。スターリンはこれを利用し、レーニンにトロツキーを批判させる。トロツキーは政治意欲を失い、政治局や赤軍から追放されてしまう事となった。 その後スターリンは必要の無くなったトロイカ体制を解消。ジノヴィエフとカーメネフにトロツキー主義に近いとレッテルを貼って追い落とすなど権力闘争を激化させて行き、1936年には最終的に2人を見世物裁判により処刑して実権を掌握した。
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