レバノン出兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 02:16 UTC 版)
詳細は「レバノン内戦」を参照 軍備再建を達成しつつも共和国軍は政府と憲法における侵略否定の観点から、海外紛争に関する対外派兵は長期間にわたって忌避され続けた状態にあった。 1982年、レバノンの難民キャンプがPLO(パレスチナ解放戦線)の拠点となっている事に不満を抱いたイスラエル軍によるレバノン侵攻が開始された。これに呼応して南部のキリスト系住民が南レバノン政府を樹立、レバノン内戦が勃発するなど中東情勢が不安定化していった。国際社会による仲裁が求められつつあった中、キリスト教マロン派の民兵組織であるレバノン軍団によるパレスチナ難民への虐殺(サブラ・シャティーラ事件)が発生すると遂に第三国の停戦部隊派遣が決定された。共和国軍はフランス軍とアメリカ軍・イギリス軍と停戦監視団を組織する事を発表、共和国軍のアンジェローニ准将が派遣旅団を指揮した。 レバノン内戦とイスラエル軍の侵攻に対する干渉は国際社会から好意的に受け止められた。この派兵によって国内の派兵に対する拒否感も軟化し、以降の積極的な国際貢献活動へと繋がっていく。
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