ヨハネの手紙三
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『ヨハネの手紙三』(ヨハネのてがみさん)は、新約聖書の正典を構成する27文書の一つで、公同書簡に分類される3通のヨハネ書簡の最後のものである。ガイオという人物に宛てて、他のキリスト教徒を受け入れ、親切にすることを説いたこの書簡は15節しかなく、旧約・新約聖書の中でも短さの点で一、二を争う。1世紀後半から2世紀初め頃に成立したと考えられているが、その短さや教理的要素の少なさもあって、キリスト教文献での直接的言及は3世紀まで見られず、正典と広く承認されるまでに時間を要した。
注釈
- ^ 原典には『約終下書』とある。しかし、「約終」は「約翰」(ヨハネ)の誤記とみなされている(新山 1979, p. 254)。
- ^ 目次での表記。本文中での見出しは『聖使徒神学者イオアンの第三公書』。
- ^ このほか個人訳による表記として『ヨハネ第三書』(ラゲ訳。本文中の見出しは『使徒聖ヨハネ第参書簡』)、『第三ヨハネ書』(前田護郎訳、柳生直行訳)、『ヨハネ書簡、第三』(田川建三訳)などがある。また尾山令仁の現代訳聖書は『ヨハネの手紙3』と、3が算用数字になっている。
- ^ ブラウンも同種の数値を挙げているが、彼の場合は逆に、第一書ないしヨハネ福音書のいずれかに出てくる単語の割合として示している。その割合は第三書の方は70%で、この記事の本文に掲げたドッドの数値と一致するが、第二書の方は86%となっている(Brown 1982, p. 16)。
- ^ こうした模倣説については、模倣の動機となるような重要な要素が手紙に見出されないことを以って否定する、伊藤顕栄のような立場もある(伊藤 1972, p. 423)。
- ^ 西暦60年代にまで遡らせる異説についてはヨハネ書簡#執筆年代を参照。
- ^ ケンブリッジ大学出版局から刊行された叢書。編集主幹はダラム大学神学部のジェイムズ・ダン。邦訳は『叢書 新約聖書神学』と題して新教出版社から刊行された。
- ^ 邦訳は『現代聖書注解』シリーズと題して日本基督教団出版局より刊行。
- ^ 英語訳聖書の一つ、英文標準訳聖書 (ESV) は新共同訳の区切り方と一致する。
- ^ 見出しの言葉には違いもあるが、区切り方自体はフランシスコ会訳聖書、前田護郎訳聖書、現代訳聖書も新改訳と一致する。
- ^ 原綴は以下の通り。NRSVの小見出しは順に、Salution / Gaius Commended for His Hospitality / Diotrephes and Demetrius / Final Greetings である(Deutsche Bibelgesellschaft 2013, pp. 729–730)。一方、エルサレム聖書の小見出しは Salution / Eloge de Gaïus / Conduite de Diotréphès / Témoignage rendu à Démétrius / Epilogue である(L'École Biblique de Jérusalem 1955, pp. 3855–3856)。なお、これらの文献の固有名詞の訳出に際しては、新共同訳聖書の表記に合わせた。
- ^ この構成の主題について小林稔は、A(1、2節)、B(3 - 6節前半)、C(6節後半 - 8節)、D(9 - 10節)、C(11節)、B(12 - 14節)、A(15節)という軸対応を見出せると指摘している(小林 2003a, p. 407)。
- ^ 第二書との酷似は、それら2書が同一の著者によると見る場合には不自然ではないが、それらを対立的に捉える田川建三は、ギリシア語力で劣る第二書の著者が、第三書の著者がよくする言い回しを真似たのだろうとしており、第三書末尾の類似性についても同様の見方を示した(田川 2015, pp. 495, 500)。
- ^ 大正改訳や田川訳では単に「長老」となっており、塚本訳でも直訳部分は「長老」のみとなっている(塚本虎二訳新約聖書刊行会 2012では直訳と敷衍部分とで印字のサイズが異なる)。ヨハネス・シュナイダー 1975の注解に付けられた翻訳でも「わたし」の部分は括弧に入れられている。
- ^ 田川は「わたしの子供たち」という時のギリシア語表現にも、第一書・第二書との違いが表れているとしている。ここで「わたしの」に使われている所有形容詞は新約聖書の時代には余り見られなくなっている古典的な表現 emos で、ヨハネ福音書では mou とともに混在しているものの、第一書・第二書には一切出てこないのである(田川 2015, p. 496)。
- ^ ライフ・アプリケーション・スタディ・バイブルの日本語訳版。
- ^ この並行句にあたる『マタイによる福音書』10章9節から10節を引き合いに出す論者もいる(ヨハネス・シュナイダー 1975, p. 425)
- ^ 松永 1991aは異邦人キリスト教徒とユダヤ人キリスト教徒が分けられているとしている (pp.471-472)。
- ^ ブラウンは、第二ヨハネ書の宛先になっている「婦人」が教会の隠喩であるとしばしば受け止められていることを踏まえ、他のヨハネ書簡に「エクレーシア」という語が出てこないこと自体は、殊更に重視すべき点ではないとしている (Brown 1982, p. 709)。
- ^ 塚本訳では「集会」という語に「エクレシヤ」とルビがふられている。
- ^ シナイ写本、アレクサンドリア写本では真理を意味する「アレーセイア」が教会を意味する「エクレーシア」になっている(加藤 1958, p. 214)。
- ^ 表記ゆれについてはディオトレフェス#表記のゆれ参照。
- ^ 土戸清は原語で「その教会」となっているとし、ディオトレフェスの教会を指しているとする(土戸 2000, p. 722)。田川建三は定冠詞つきの教会はこの場合、全キリスト教会を意味するとし、多くの教会に書き送られたと見ている(田川 2015, p. 498)。
- ^ 田川建三は、似たような表現がプルタルコスの作品にあるものの、ほかには一切出てこないことから、第一書、第二書と異なる著者の造語能力の高さを示すと見ている(田川 2015, p. 498)。
- ^ 田川はこの論点に関連し、特に9,10節あたりには、第二ヨハネ書などに比べて歴然としたギリシア語能力の違いが見られるとし、第二書と第三書の著者を同一とする説を批判している(田川 2015, p. 499)。
- ^ 「少しばかり」は、シナイ写本では「再び」となっている(加藤 1958, p. 215)。
- ^ 日本語文献でこの書き送りを第二ヨハネ書と見ていないのは、加藤 1958 (p.215)、フェデリコ・バルバロ 1967 (p.301)、フランシスコ会聖書研究所 1970 (p.136)、ヨハネス・シュナイダー 1975 (p.426)、R・ブルトマン 1987 (p.140)、宮内 1992 (p.759)、土戸 2000 (p.722)、ジョン・R・W・ストット 2007 (p.259)、レイモンド・E・ブラウン 2008 (p.192)、いのちのことば社出版部(翻訳) 2011 (p.2132)、塚本虎二訳新約聖書刊行会 2012 (p.1002)、田川 2015 (p.498)、宮平 2015 (p.365) など。逆に第二書と見ているのは、泉田 et al. 1985 (pp.1325-1326)。
- ^ ドッドは2章3節から5節、3章4節から10節、4章7節を(Dodd 1946, pp. 165–166)、ブラウンは3章10節、4章7節と20節を(Brown 1982, p. 721)、ブルトマンは3章6・10節および4章2節から7節を(R・ブルトマン 1987, p. 143)、マルクスセンは3章17節、4章8節を挙げている(W・マルクスセン 1984, p. 483)。
- ^ その他の表記の揺れについてはデメトリオ#表記のゆれを参照のこと。
- ^ 使徒ヨハネの著作とみなしているバルバロは、この表現にはイエスとの思い出がこめられているとした(フェデリコ・バルバロ 1967, p. 303)。
- ^ この点は、使徒ヨハネ説の傍証に使われることがある。すなわち、そのような神学的に重要でない手紙が正典に含まれたのは、書き手が使徒ヨハネのような重要人物であったからというわけである(フランシスコ会聖書研究所 1970, p. 99)。
- ^ ただし、7節に登場する「御名」は「キリストの御名」などということであり、間接的になら言及されていないわけではない(Brown 1982, p. 727)。
- ^ 田川はこの表現について、第一書・第二書が「真理」と強調することに対抗し、こちらこそがそうであると主張したものと述べている(田川 2015, p. 496)。
出典
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- ^ 三拍子の祝福. Chō, David Yonggi, 1936-, 趙, 鏞基, 1936-. 埼玉: 新生宣教団. (1978). ISBN 4-88281-092-1. OCLC 676635528
ヨハネの手紙三
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詳細は「ヨハネの手紙三」を参照 第三書は15節から成る手紙で、単語数でみれば聖書の中で最も短い文書である。「長老」がガイオに宛てた個人的な書簡で、福音を説いて回る巡回伝道者を歓待していたガイオの振舞いを賞賛しつつ、歓待を拒否するディオトレフェスを批判している。また、正しい人物としてデメトリオの名が挙げられている。 短い個人的な手紙という性質上、ガイオ、ディオトレフェス、デメトリオという3人の登場人物についても、詳しいことは書かれておらず、さまざまな説が存在している。ただ、いずれにしても、巡回説教者の影響力が低下し、地域に定着した監督者の影響力が強まっていく教会制度の過渡期の様子を伝えるものとして見なされている。
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