モンテ・アルバンの衰退とは? わかりやすく解説

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モンテ・アルバンの衰退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/22 22:10 UTC 版)

モンテ・アルバン」の記事における「モンテ・アルバンの衰退」の解説

モンテ・アルバンIIIb期500年750年)には、人口モンテ・アルバン集中し、25000人に達した考えられ規模は、6.5km2に拡大した盆地全体人口は、8万人ほどに減少した考えられるモンテ・アルバン中央広場が完全に建物囲まれたのがこの時期である。広場出入り口が3ヶ所に限られ防御性増したことから、貧富の差拡大し庶民層の不満が高まって不安定になっていったとも考えられるモンテ・アルバンIV期750年1000年)には、モンテ・アルバンはすっかり衰退し人口4,000人ほどの二流センターなりさがる盆地全体では7万人減少し盆地南部のハリエサが人口1万6,000人をかかえる盆地最大集落となったモンテ=アルバン見られる大建造物囲まれ中央広場築かれず、小センター同士分裂状態になった。なお、盆地南部のトラコルラ河谷ミトラこのころから本格的に活動し始めた考えられている。 このような状態であってもモンテ・アルバン中央広場放棄されずに維持されてきたと推定される。このことは、最近の発掘調査によって、モンテ・アルバンV期(1000年1520年)に北基壇建造物Bの最上層の建設が行われたことが判明したことからも裏付けられている。 モンテ・アルバン編年ロサリオ期700B.C.~500B.C サン・ホセ・モゴテ優勢 モンテ・アルバンI期500B.C.~100B.C. 「踊る人々神殿建設サポテカ文字出現Ib期末で人口17000人 モンテ・アルバンII期100B.C.~A.D.200 建造物J(天文台)、球戯場建設サポテカ王国勢力拡張人口14500人 モンテ・アルバンIIIa期A.D.200~A.D.500 人口16500人、中央広場の南基壇などの建造物建設されるテオティワカンとの外交同盟関係モンテ・アルバンIIIb期A.D.500~A.D.750 人口25000人、中央広場をめぐる建造物全て完成したモンテ・アルバンIV期 A.D.750~A.D.1000 人口4000人に衰退オアハカ盆地小規模センター分立 モンテ・アルバンV期 A.D.1000~A.D.1521 ミシュテカ支配。北基壇建造物Bの建設

※この「モンテ・アルバンの衰退」の解説は、「モンテ・アルバン」の解説の一部です。
「モンテ・アルバンの衰退」を含む「モンテ・アルバン」の記事については、「モンテ・アルバン」の概要を参照ください。

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