ブライアン・イーノ時代とは? わかりやすく解説

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ブライアン・イーノ時代(1978年 - 1980年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 08:42 UTC 版)

トーキング・ヘッズ」の記事における「ブライアン・イーノ時代(1978年 - 1980年)」の解説

アルバムモア・ソングス』でブライアン・イーノプロデューサー迎えると、バンド楽曲の中でよりリズム感グルーヴ感追求するようになった。『モア・ソングス』はバハマコンパス・ポイント・スタジオレコーディングされ、このアルバムから「テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー(英語版)」(アル・グリーンカバー曲)がヒットすると、バンドはようやく一般的な認知度得た。 「テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー」はオーストラリアでもヒットしバンドはニュー・アルバムの製作の合間にオーストラリア・ツアーに出ている。ツアー挟み完成したアルバムフィア・オブ・ミュージック』では、再びイーノ組んだフーゴ・バルの詩を改作したイ・ズィンブラ英語版)」では、ロバート・フリップサポート迎えてアフロビート、アフリカン・ファンクに挑戦している。 アルバムリメイン・イン・ライト』では、三度イーノ組み、「I Zimbra」の音楽性をさらに進化させたポリリズムアフロビート挑戦した。『リメイン・イン・ライト』は再びバハマコンパス・ポイント・スタジオ(一部アメリカスタジオ)で録音された。エイドリアン・ブリュージョン・ハッセルなどをサポート迎えたこの作品で、バンドその評価確固たるものにした。 また、リメイン・イン・ライト発表直前からサポート・ミュージシャン含めたビッグ・バンド編成ライブを回るようになり、アメリカヨーロッパ各国でのツアーでは、バーン特異なライブ・パフォーマンスや、バンドバンドトム・トム・クラブ」が話題になったトム・トム・クラブは「悪魔のラヴ・ソング」をヒットさせた。 ツアー後、バンド活動停滞するバンド停滞期間中には、ソロ活動が行なわれ、ブライアン・イーノデヴィッド・バーンコラボレーション盤『マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースツ(英語版)』や、ジェリー・ハリスンのアルバム赤と黒英語版)』などがリリースされた。 ライブ盤實況録音盤(英語版)』もリリースされた。このライブ盤は、バンド停滞にしびれを切らしたマニアが『Electricity』という海賊盤1978年クリーブランドでのライブ)を幅広く出回らせてしまうという事態が起きたため、レコード会社対策的にリリースしたのである

※この「ブライアン・イーノ時代(1978年 - 1980年)」の解説は、「トーキング・ヘッズ」の解説の一部です。
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