ブライアン・イーノ時代(1978年 - 1980年)
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「トーキング・ヘッズ」の記事における「ブライアン・イーノ時代(1978年 - 1980年)」の解説
アルバム『モア・ソングス』でブライアン・イーノをプロデューサーに迎えると、バンドは楽曲の中でよりリズム感やグルーヴ感を追求するようになった。『モア・ソングス』はバハマのコンパス・ポイント・スタジオでレコーディングされ、このアルバムから「テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー(英語版)」(アル・グリーンのカバー曲)がヒットすると、バンドはようやく一般的な認知度を得た。 「テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー」はオーストラリアでもヒットし、バンドはニュー・アルバムの製作の合間にオーストラリア・ツアーに出ている。ツアーを挟み完成したアルバム『フィア・オブ・ミュージック』では、再びイーノと組んだ。フーゴ・バルの詩を改作した「イ・ズィンブラ(英語版)」では、ロバート・フリップをサポートに迎えて、アフロビート、アフリカン・ファンクに挑戦している。 アルバム『リメイン・イン・ライト』では、三度イーノと組み、「I Zimbra」の音楽性をさらに進化させたポリリズムとアフロビートに挑戦した。『リメイン・イン・ライト』は再びバハマのコンパス・ポイント・スタジオ(一部はアメリカのスタジオ)で録音された。エイドリアン・ブリューやジョン・ハッセルなどをサポートに迎えたこの作品で、バンドはその評価を確固たるものにした。 また、『リメイン・イン・ライト』発表直前からサポート・ミュージシャンを含めたビッグ・バンド編成でライブを回るようになり、アメリカやヨーロッパ各国でのツアーでは、バーンの特異なライブ・パフォーマンスや、バンド内バンド「トム・トム・クラブ」が話題になった。トム・トム・クラブは「悪魔のラヴ・ソング」をヒットさせた。 ツアー後、バンドの活動は停滞する。バンドの停滞期間中には、ソロ活動が行なわれ、ブライアン・イーノ&デヴィッド・バーンのコラボレーション盤『マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースツ(英語版)』や、ジェリー・ハリスンのアルバム『赤と黒(英語版)』などがリリースされた。 ライブ盤『實況録音盤(英語版)』もリリースされた。このライブ盤は、バンドの停滞にしびれを切らしたマニアが『Electricity』という海賊盤(1978年のクリーブランドでのライブ)を幅広く出回らせてしまうという事態が起きたため、レコード会社が対策的にリリースしたものである。
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