ピアーヴェ川戦域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/21 22:52 UTC 版)
「ピアーヴェ川の戦い」の記事における「ピアーヴェ川戦域」の解説
オーストリアの攻勢作戦が発動されると、ディアズ将軍はボロイェヴィッチのピアーヴェへの攻勢を予測して、6月15日午前3時00分に先制砲撃を行った。攻勢で混雑していたボロイェヴィッチ軍の上空に砲弾が降り注いで大量の負傷者が発生、うろたえたオーストリア兵の多くは攻勢を放棄して陣地に逃げ戻った。それでも一部の師団はイタリア軍陣地に到達したので、ボロイェヴィッチ将軍はピアーヴェ川の中央に攻撃を命じた。ピアーヴェ川に掛かる橋を進むオーストリア軍とイタリア軍陣地の激しい交戦はイタリア側に軍配が上がり、ボロイェヴィッチの退却命令でオーストリア軍は退却した。 翌日にボロイェヴィッチは二度目の攻勢を開始したが、前日の戦いでピアーヴェ川の橋は完全に破壊されていて渡河しか手段はなかった。運良く川を渡れた師団は装備や物資を少数しか持ち込めず、更にピアーヴェ川の増水で渡河中のオーストリア軍師団が彼方此方で孤立してしまっていた。彼らはイタリア軍師団にとって格好の標的として無慈悲な銃火に晒され、川岸に僅かな橋頭堡を確保した時点でオーストリア軍は2万人という大量の戦死者を出していた。そして6月19日、ディアズはイタリア軍師団に反撃を命令して川岸の橋頭堡を奪還、6月23日までにボロイェヴィッチ軍は敗走を開始した。
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