パレスチナとの関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 05:52 UTC 版)
「エドワード・サイード」の記事における「パレスチナとの関わり」の解説
サイードは、イスラエル領とその占領地域およびそれ以外の土地に住むパレスチナ人の権利を擁護した。彼は長年にわたってパレスチナ民族評議会の一員であったが、1993年に調印されたオスロ合意をめぐっては、(占領地域のヨルダン川西岸とガザ地区から撤退する代わりとして)イスラエルがパレスチナと相互承認を行い占領地域に居住していたパレスチナ人の自立について交渉を開始するという合意を、両者の分裂を決定的にする上にパレスチナ難民が元の土地へ帰還する権利を軽視したものとして強硬に反対。ヤーセル・アラファートと決裂した。 その代案としてサイードは、アラブ人とユダヤ人が等しい権利を持つ新たな国を作るべきとの「一国家解決」論を主張した。イスラエルのパレスチナ占領に関するサイードの著書には、『パレスチナ問題』(1979年)、『パレスチナとは何か』(1986年)などがあり、彼の主張は敵対する民族を超えたリベラルなものと評価された。彼の死を知ったイスラエル人の歴史家イラン・パッペは、「私のようなイスラエルのユダヤ人にとってサイードは、シオニズム国家で成長するということの闇と混乱のなかから私たちを連れ出し、理性と倫理、そして良心の岸辺へと導いてくれる灯台であった。」と追悼した。
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