ノバスコシアの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 13:49 UTC 版)
詳細は「ウィネパングの戦い」を参照 アナポリスロイヤル封鎖への報復として、ニューイングランド軍は、1722年の7月末に封鎖を終わらせるための作戦の展開に出た。そして86人のニューイングランドの捕虜を救い出した。ウィネパングの戦いは、この作戦の一環だった。これにより、35人のインディアンと5人のニューイングランド兵が犠牲となった。この戦いで遺体が戻ったインディアン兵は5人に過ぎず、ニューイングランド軍は遺体から首を切り離し、カスコの新しい砦の回りにその首級を並べた。 この戦争中にシュベナカディ(サンタンヌの教区)のミクマク族の集落に、カトリックの教会が建てられた。1723年、カンゾの町が再びミクマク族に襲われ、漁師が5人殺された。同じ年、ニューイングランドでは、集落と漁業を守るために、12の大砲を備えた防塞が作られた。 アナポリスロイヤルにおける戦いでは、1724年7月4日に最も激しい戦闘が起きた。この日、60人のミクマク族とマリシート族がアナポリスロイヤルを襲った。インディアンたちは、ニューイングランドの軍曹と兵士を一人ずつ殺し、4人の兵士を傷つけ、集落にテロ行為を加えた。また家を焼き、捕虜を連行した。これに対してニューイングランド軍は、軍曹が殺された同じ場所でミクマク族の1人を人質に取った。そして、報復として3軒のアカディア人の住居を焼いた。襲撃の結果を受けて、アナポリスロイヤルを守るために3つの防塞が作られた。アカディア人の教会は、監視しやすくするために砦の近くに移された。 1725年、60人のアベナキ族とミクマク族がカンゾに新たな攻撃を仕掛け、2軒の家を壊して6人を殺した。
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