ドロン・ノールでの謹慎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:57 UTC 版)
雲南からの帰還後は金の旧都である中都(現在の北京)の北、南モンゴル(現在の内モンゴル自治区)中部のドロン・ノール(中国語版、英語版)に幕営(オルド)を移し、後方から江南の南宋および朝鮮半島の高麗征服(→ジャラルダイの第六次高麗侵攻、1253年 - 1258年)の総指揮を取った。クビライは後方のドロン・ノールに腰を据えて動かず、ここに遊牧宮廷の補給基地となる都城の開平府(後の上都)を築き、姚枢ら漢人のブレーンを登用して中国を安定して支配する道を模索した。 しかし、アラムダル(阿藍答児)によるクビライ派への調査を受けて、1256年にモンケは不満を持つクビライを南宋作戦の責任者から更迭し、南宋への戦線を東方三王家筆頭でテムゲ・オッチギンの孫のタガチャルにまかせたがすぐに撤退してしまった為、モンケ自らの陣頭指揮により行うことを決した。南宋を早急に併合することを望むモンケは、1258年に自ら陝西に入って親征を開始し、河南から四川の南宋領を転戦したが、1259年の釣魚城(中国語版、英語版)(現在の重慶市合川区)攻略中に、軍中で流行した疫病(赤痢)に罹って病死した。
※この「ドロン・ノールでの謹慎」の解説は、「クビライ」の解説の一部です。
「ドロン・ノールでの謹慎」を含む「クビライ」の記事については、「クビライ」の概要を参照ください。
- ドロン・ノールでの謹慎のページへのリンク