ドイツ領南西アフリカ
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ドイツ領南西アフリカ(ドイツりょうなんせいアフリカ、独: Deutsch-Südwestafrika、略称DSWA)は、かつてのドイツ植民地帝国内の植民地である。1884年から1915年まで存続し、第一次世界大戦後は南アフリカ連邦の委任統治下に移管され南西アフリカという名称に変更し、1990年にナミビアという国名で独立を果たした。面積は835,100平方キロメートルであり、当時のドイツ帝国の面積の1.5倍であった。
- 1 ドイツ領南西アフリカとは
- 2 ドイツ領南西アフリカの概要
- 3 初期の植民地
- 4 ドイツ支配に対する反乱
- 5 第一次世界大戦
- 6 脚註
ドイツ領南西アフリカ
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「アフリカ戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「ドイツ領南西アフリカ」の解説
1915年3月、南アフリカ軍67,000名は4個縦隊で南西アフリカへ侵攻を開始した。南アフリカ軍は練度が高く、現地と同種の地形で生活した経験があった。彼らは馬に乗り、何もない土地を数百kmあまり縦断した。ドイツ軍は遅滞戦術を展開しようとしたが成功しなかった。ボータ自身が軍を率い、ウォルビスベイおよびスワコプムントを占領した。進撃中、部隊は頑強な抵抗だけでなく、地雷原と有毒物質の井戸に遭遇した。3月12日、植民地首都ヴィントフークは占領され、この時までに南アフリカ軍は南西アフリカのほとんどを手中に納めた。この段階でドイツ軍に降伏勧告がなされたが不首尾に終わり、ドイツ軍を徐々に領土の北西に押し込みながら戦闘は続いた。1915年7月1日、ドイツ軍はオタヴィ(英語版)で敗北し(オタヴィの戦い(英語版))、7月9日、コラブ(英語版)(英語: Khorab)で降伏した。南西アフリカは以後75年に渡り、事実上南アフリカに支配された。
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