テフェリ・バンテとは? わかりやすく解説

テフェリ・バンテ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/13 07:22 UTC 版)

テフェリ・バンテ
ተፈሪ በንቲ

テフェリ・バンテ(写真中央)

任期 1974年11月28日1977年2月3日
第一副議長
第二副議長
メンギスツ・ハイレ・マリアム
アトナフ・アバテ英語版
国王 アムハ・セラシエ1世[注 1]

出生 (1921-10-11) 1921年10月11日
エチオピア帝国 アディスアベバ
死去 (1977-02-03) 1977年2月3日(55歳没)
社会主義エチオピア アディスアベバ
政党 無所属
宗教 エチオピア正教会
軍歴
所属組織 エチオピア陸軍英語版
軍歴 1941年 - 1977年
最終階級 少将
戦闘 エリトリア独立戦争
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テフェリ・バンテアムハラ語: ተፈሪ በንቲ, ラテン文字転写: Tafari Benti, 1921年10月11日 - 1977年2月3日[1])は、エチオピア政治家軍人臨時軍事行政評議会 (PMAC) 議長。軍隊の階級は陸軍少将[2]

人物

1974年、エチオピアの皇帝ハイレ・セラシエ1世クーデターで廃位したあと、9月13日、国家元首に就任した。実権を握っていたPMAC議長アマン・アンドム中将が殺害された後11月28日にPMAC議長に就任したが[2]、実権は軍部調整委員会を掌握していたメンギスツ・ハイレ・マリアムが握っていた。1977年2月3日にアスラト・デスタ陸軍中佐、ヒルイ・ハイレ・セラシエ陸軍中佐等と共に粛清処刑)された。

脚注

注釈

  1. ^ 臨時軍事行政評議会より指名されたものの、アムハ・セラシエ1世自身は承認していない。1975年に退位する。

出典

  1. ^ 佐藤章. “アフリカの「統治者」一覧(資料)” (PDF). アフリカの「個人支配」再考. ジェトロ・アジア経済研究所. 2009年5月21日閲覧。
  2. ^ a b ラウル・バルデス・ビボ(後藤政子訳)『エチオピアの知られざる革命』恒文社、1978年11月、pp200-204

関連項目

公職
先代
メンギスツ・ハイレ・マリアム
(代行)
臨時軍事行政評議会議長
第2代:1974年 – 1977年
次代
メンギスツ・ハイレ・マリアム




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