チロル奪取
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:54 UTC 版)
「ルドルフ4世 (オーストリア公)」の記事における「チロル奪取」の解説
アルブレヒト賢公の時代、チロルはマインハルト伯爵家の領土であった。ルドルフ1世の戦友マインハルト2世に、男系が絶えたら返還するという条件で封土されたものだった。第3代チロル伯であるケルンテン公ハインリヒ6世は男子を残さず他界し、「マウルタッシュ」(醜女)ことマルガレーテが唯一の相続人となった。このマルガレーテと最初に結婚したのはルクセンブルク家のモラヴィア辺境伯ヨハン・ハインリヒだったが、勢力拡大を狙うヴィッテルスバッハ家の神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世が夫婦の不仲を衝いてチロルの貴族を扇動し、ヨハン・ハインリヒを追放させた。 次にルートヴィヒ4世の長男、ブランデンブルク辺境伯ルートヴィヒ2世(後に上バイエルン公ルートヴィヒ5世となる)が婿におさまったが、これに教皇クレメンス6世が介入し、結婚の無効を宣言した。更に、教皇にかまわず式を挙行したルートヴィヒ4世は破門され、ヨハン・ハインリヒの兄であるカール4世が対立王となった。1344年、ルートヴィヒ2世とマルガレーテの間にはマインハルト3世が生まれたが、アルブレヒト賢公は教皇に破門を取り消させる代わりに娘(ルドルフの妹)をマインハルト3世に嫁がせた。なお、ルートヴィヒ4世は1347年に死亡している。 1361年にルートヴィヒ5世が、1363年1月13日にマインハルト3世が死去した。ウィーンで知らせを聞いたルドルフ4世は、雪の中チロルに急行し、チロルを譲渡する証書にマルガレーテの署名を受け取った。そして証書の日付を強引に改竄し、チロルの反対派貴族の持つ証書の無効を主張して、チロルをハプスブルク家領にした。マインハルト3世の叔父、下バイエルン公シュテファン2世が相続権を主張して送り出した軍勢も、チロルから徴収した軍資金で軍勢を揃えて撃退した。さらにカール4世が裁定に乗り出し、婿であるルドルフ4世のチロル獲得が承認された。ただし、シュテファン2世はルドルフ4世の死後も抗争を継続し、上バイエルンと賠償金を獲得して最終的にハプスブルク家と和睦するのは1369年のことである。
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