ダマスカス政権の消滅とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ダマスカス政権の消滅の意味・解説 

ダマスカス政権の消滅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/23 15:56 UTC 版)

シリア・セルジューク朝」の記事における「ダマスカス政権の消滅」の解説

十字軍抵抗せずひたすら屈従していたドゥカークは、領土であるゴラン高原農村十字軍荒らされたと聞きエルサレム拠点動いていたゴドフロワ・ド・ブイヨンタンクレード行軍攻撃し敗走させるが、逆に彼らによるダマスカス近郊略奪破壊という報復を受け、ドゥカーク民衆部下見捨てられ始めた。しかしゴドフロワ・ド・ブイヨン急死と、ボエモン小アジアセルジューク系の王ダニシュメンドに敗北し捕虜となった知らせ聞き、名誉回復のため自分十字軍諸侯討とうとゴドフロワにかわりエルサレムに入る彼のエデッサボードワン行路待ち伏せする決意をする。ところが、十字軍対すると同じくらいドゥカークによる専横略奪恐れていた豊かな港町トリポリカーディー法治官)ファクル・アル・ムルクは、ボードワンひそかに迎えなおかつ待ち伏せされている事を教えたため、ドゥカーク作戦失敗し退却ボードワンは無事エルサレム入りエルサレムボードワン1世」を名乗ることができ、「エルサレム王国」の誕生許してしまう。 1102年今度トリポリ攻撃を受ける。相手トゥールーズ伯レーモン4世(レーモン・ド・サン・ジル)で、「1101年の十字軍」を率いて小アジア攻め込んだクルチ・アルスラーン1世らの攻撃壊滅しシリア着いたときはわずか数百騎の兵力だった。領主ファクル・アル・ムルクと救援に来たドゥカーク軍勢は数では圧倒的に有利だったが、ドゥカークの軍は十字軍見ただけで退却して逃げてしまう。以前待ち伏せ密告されたことの仕返しだったのだろう。こうしてトリポリ軍は大敗し十字軍強力な拠点となるトリポリ郊外の城をレーモン・ド・サン・ジルが掌握することとなった。(この城が後の十字軍国家トリポリ伯国母体となり、やがてトリポリ政権滅ぼしトリポリ本拠を移す。) ドゥカーク1104年早世してしまった。かわってトゥグ・テギーンはドゥカークの子1歳ほどのトゥトゥシュ2世、ついでドゥカークの弟のエルタシュを相次いで立ててそのアタベクとなるが、エルタシュはトゥグ・テギーンの権勢怖れダマスカスから逃亡したその結果、トゥグ・テギーンが支配権受け継ぐこととなりアタベク政権ブーリー朝誕生しダマスカスセルジューク政権断絶した

※この「ダマスカス政権の消滅」の解説は、「シリア・セルジューク朝」の解説の一部です。
「ダマスカス政権の消滅」を含む「シリア・セルジューク朝」の記事については、「シリア・セルジューク朝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ダマスカス政権の消滅」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ダマスカス政権の消滅」の関連用語

ダマスカス政権の消滅のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ダマスカス政権の消滅のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのシリア・セルジューク朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS