ソ連の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:44 UTC 版)
「汎ヨーロッパ・ピクニック」の記事における「ソ連の動き」の解説
それまで東欧の共産主義国家の政治を牛耳ってきたソ連だったが、この事件に関して西側を挑発することも、ハンガリーに制裁を加えることもなく、事実上見て見ぬ振りをし、なんの干渉もしなかった。 それどころか、先述の東ドイツでの民主化勢力に点火したのが、当のソ連最高指導者だったと言っても過言ではなかった。ホーネッカー退陣直前の10月6日、ミハイル・ゴルバチョフは東ドイツ建国40周年記念式典に参加した。その際、自らの進めるペレストロイカを押し出した演説をしたのに対し、ホーネッカーは自国の社会主義の発展を自画自賛するのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべてSEDの党幹部達を見渡すと、舌打ちをした。これによって、ゴルバチョフがホーネッカーを否定したことがSEDの幹部たちの目にも明らかになった。これを機にクレンツやギュンター・シャボフスキーらはホーネッカーの失脚工作に乗り出し、10月17日には政治局でホーネッカーの解任動議が可決されることになった。
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