スペイン内戦下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 09:26 UTC 版)
「アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ」の記事における「スペイン内戦下」の解説
帰国後は、ファランヘ党のヒットマンとしても活動していた事から、内戦の勃発に際して、共和国に対する反逆者と見なされ、ビルバオの刑務所に投獄される事となった。しかし、移送時に看守の隙を見て脱獄し、ナショナリスト派(英語版、スペイン語版)の占領区域にまで逃げ込み、1936年7月18日の反乱軍による蜂起にも馳せ参じる事となった。 だが、1937年4月にフランシスコ・フランコがファランヘ党と複数の保守系反共和国団体との合同を強行するなど、これまでの党の性格を否定し、自身の統制下に置く方針を採った。この事に党の古参指導部は強く反発し、ベラスコ自身も2回に亘って、フランコの暗殺を計画したものの、全て失敗に終わった。これによって、ベラスコは争乱へ参加した容疑で逮捕され、「軍事的反乱」を試みた罪状により、裁判で終身刑を宣告された。 刑が確定した後は、複数の刑務所をたらい回しにされ、最終的にパンプローナのサン・クリストバル砦(英語版、スペイン語版)へ収監される事となった。そこでベラスコは、内戦における共和国派の囚人による大規模な脱獄に巻き込まれた事から、騒ぎに乗じてパンプローナの市街地まで脱出し、ナショナリスト派側の当局に一連の経緯を告発する事に成功した。この功績によって、ベラスコの刑期は僅か2年に短縮される事となった。
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