ジート&ボロ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 09:16 UTC 版)
ベポの後任には、ピッツバーグの興行でジートにスカウトされたビル・イーディーがボロと名乗って加入。ボロはベポと遜色ない大型選手であり、1973年下期よりNWFにて新生モンゴルズとしての活動を本格的に開始、ボボ・ブラジル&ドミニク・デヌーチ、マイティ・イゴール&ザ・ストンパー、タイガー・ジェット・シン&ダン・ミラーなどのチームと対戦した。 1974年4月には新生モンゴルズとして新日本プロレスの『第1回ワールドリーグ戦』に来日。ボロは予選リーグで脱落したものの、ジートは決勝リーグに進出している。帰国後はジートの地元ノバスコシアを拠点とするマリタイム地区のESAを経て、1975年はNWFのペドロ・マルティネスが参画していたIWAを主戦場に活動。3月にIWA世界タッグ王座の初代王者チームに認定され、アーニー・ラッド&サンダーボルト・パターソンのソウル・パトロールやディノ・ブラボー&ジノ・ブリットのイタリアン・コネクションなどとタイトルを争った。 翌1976年にIWAが活動を停止すると、ジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAのミッドアトランティック地区に参戦、ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンのミネソタ・レッキング・クルーとも抗争を展開した。同年7月には新日本プロレスに再来日して、「モンゴル代表」として『アジア・リーグ戦』に出場。このときは、ボロが予選を突破して決勝リーグに進出している。 帰国後はミッドアトランティックに戻ったが、ブッカーのジョージ・スコットがボロのギミックをリニューアルして、同地区を離れたスーパー・デストロイヤーに代わる覆面レスラーとしてプロデュースすることを発案。ジートも地元のノバスコシアに戻ることを希望していたため、1976年9月をもってモンゴルズは解散。ボロは9月26日のワフー・マクダニエルとのルーザー・リーブス・タウン・マッチに敗れた翌日、覆面レスラーのマスクド・スーパースターに変身してミッドアトランティックに再登場したが、その正体が前日まで試合をしていたボロ・モンゴルであることに、誰もが気づかなかったという。
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