サヴァリの戦隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/01 10:22 UTC 版)
フランスの最高司令部は、侵攻軍が崩壊して行くのをただ見ているだけではなかった。ダニエル・サヴァリ准将の率いる、第二の4隻のフリゲート艦隊を準備し派遣した。当初この艦隊の指揮官はボンパールの予定であったが、ボンパールはその後、第一の戦隊の生存者を護送する役に回された。10月27日、サヴァリはボンパールの戦隊が崩壊したこと、アイルランドの暴動について、キララの、フランスに共感する地元民から聞き、ボンパールの戦隊と似たような運命をたどるのを避けようとして、すぐさま南に向かった。しかし翌28日、ジェームズ・ソーマレズ(英語版)艦長の3隻からなる戦隊に見つかった。この戦隊には2隻の戦列艦が組み込まれていた。ソーマレズはすぐにサヴァリの戦隊を追跡し、両軍はその日一日中長距離砲を交わした。夕方遅くなってから、ソーマレズの旗艦であるカエサル[要リンク修正] はフォアトップマストを強風で失い、指揮をテリブルのリチャード・ビッカートン艦長にゆだねた[要出典]。 追跡は翌日も続き、10月29日も遅くなってからサヴァリは戦隊を分割し、2隻のフリゲート艦を南東に派遣して、もう2隻は北西に針路を取らせた。これに対応して、ビッカートンも戦力を分割し、フリゲート艦メルポミーンを、南東に向かったフランス軍の追跡に当て、自分はサヴァリを追った。10月30日、イギリスの両艦は、それぞれの敵艦から2海里(3.7キロ)以内の所にいて、戦闘の準備を整え、強い嵐がやって来た17時に戦闘を開始した。サヴァリの艦はテリブルとの距離を広げていき、艦を軽くしようとして大砲や馬や装備を海に投げ入れ、そのためいくらか強風に対応できるようになった。イギリス艦テリブルはそれよりも重く、敵艦の速度に対抗できず遅れが出た。4隻は視界から消え去り、最終的には自力でブレストに戻って行った。これでフランスの、アイルランドへの最後の侵攻計画は幕を閉じた。 オランダもまた、フランスの侵攻作戦の艦隊を支援しようとして失敗に終わっていた。オランダは小型フリゲート艦のフーリエとワークザームハイト(英語版)を、10月24日に軍事物資と共にアイルランドに送っていた。まだ出航して何時間もたたないうちに、この2隻は、リチャード・キング(英語版)が艦長を務めるイギリスのフリゲート艦シリウス(英語版)に妨害され、拿捕されてしまった。この戦闘を1798年10月24日の海戦と呼ぶ。
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